米子城 (よなごじょう) (久米城・湊山城) (国の史跡)
最寄地 鳥取県米子市西町36−1 2013.10.14
米子城 (よなごじょう) (久米城・湊山城) (国の史跡)
最寄地 鳥取県米子市西町36−1 2013.10.14
桝形
北東面石垣
本丸・四阿
本丸・天守台
天守台より本丸石垣
内膳丸
米子城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m】
【案内・感想】 「鳥取大学附属病院」(表記番地)の南西方向に「湊山公園」駐車場がある[マップコード109 324 660*72]。
東に登ると尾根に出、北に「内膳丸」(地図)、南に「本丸」がある。
本丸は標高90.5m比高約80mの湊山山頂の高石垣上にある。北東面の階段状石垣は美観上素晴らしい。
本丸に天守台が残り、全体的に石垣は、良く保存されている。「鳥取県西部医師会館」(鳥取県米子市久米町136)前に石垣の残る桝形虎口があり、その西、二の丸跡(地図)に旧小原家長屋門が移築され、その奥はテニスコート4面になっている。
三の丸跡は現在鳥取大学医学部付属病院や米子市営湊山球場の敷地となっている。
昭和五十七年(1982年)から昭和五十九年(1984年)にかけて石垣の修理が実施された。
平成十八年(2006年)1月26日、国の史跡に指定された。
【歴史】 応仁・文明年間(1467~87年)伯耆国守護山名教之の配下・山名宗之により築城されたと伝えられる。
応仁の乱時、西軍の山名氏が支配する伯耆と、東軍京極氏が支配する出雲の国境は緊張した。
大永四年(1524年)、大永の五月崩れ(さつきくずれ)によって落城、尼子氏の支配となった。
永禄五年(1562年)頃、毛利氏の尼子氏攻略に伴い、山名氏の支配に復した。永禄十二年(1569年)、尼子氏再興の旗揚げをした山中鹿之助幸盛らは、米子城主山名之玄と結ぶが、毛利方の吉川元春に攻められ落城、城主・山名之玄は自害した。
天正十九年(1591年)、東出雲・隠岐・西伯耆を領した吉川広家が城主となり、古曳吉種に命じ、湊山を中心に築城を始め、頂上の四重櫓と縄張りを造った。
その後広家は岩国城に転封され、慶長五年(1600年)伯耆17万5千石領主・中村一忠がさらに拡張し、慶長七年(1602年)完成した。
城は、頂上の五重天守と四重櫓を中心とする本丸、北の内膳丸、東の飯山を控えた湊山山裾の二の丸を領主の館とし、その北には、内堀に囲われた三の丸に作事場、米蔵、馬小屋等が造られた。又裏側には、深浦湾を臨む水軍用の曲輪が造られた。三の丸をこえた内堀と外堀の間は侍屋敷であった。
慶長八年(1603年)、城主側近の安井清一郎、天野宗杷等の陰謀に惑わされた城主中村一忠は家臣・横田村詮を謀殺した。
徳川家康は激怒、首謀者、安井、天野両名を容赦なく切腹に処した。慶長十四年(1609年)、中村一忠が急死、惜しくも中村氏は家系断絶のため改易された。
翌年、替わって美濃国黒野藩(黒野城)加藤貞泰が伯耆の内で二郡6万石を領して藩主となった(中村氏旧領の残り11万5千石は、八橋藩市橋氏・黒坂藩関氏・天領などに分割統治される)。
元和三年(1617年)、加藤貞泰が大洲藩(大洲城)に移され、米子藩は廃藩となった。伯耆・因幡が全て鳥取藩池田光政の所領となったことにより、米子城には家老の池田由成が城代として駐在した。
寛永九年(1632年)、池田光政の岡山国替により、池田光仲が藩主となり、明治維新に至るまで米子城は家老の荒尾氏11代が城代として守った。
明治三年(1870年)、米子城は士族等に払い下げられ、石垣を残して取り壊された。その後、城跡一帯は坂口氏の手に渡った。
昭和八年(1933年)、坂口平兵衛意誠氏から米子市に寄付され、現在は湊山公園として整備されている。