勝瑞城 (しょうずいじょう) (勝瑞城館) (国の史跡)
所在地 徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地176 2014.5.17
勝瑞城 (しょうずいじょう) (勝瑞城館) (国の史跡)
所在地 徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地176 2014.5.17
見性寺入口・城跡碑
見性寺
勝瑞義家碑
土塁と矢竹
北側堀
勝瑞城址公園
勝瑞城館跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道14号線に面して見性寺(表記番地)があり[マップコード56 468 334*21]、境内が勝瑞城跡である。東は一部埋まっているが北、西、南の堀は良く残っている。
東に土塁が残り北に勝瑞義家碑が建てられている。勝瑞義家碑は四国正学といわれた徳島藩儒官・那波魯堂(1727~89年)の撰で戦国大名三好家の盛衰と戦没者の慰霊文を記した歴史的な記録である。
東西約80m、南北約60mの方形で、周囲には幅約14mの水堀が巡り、一部土塁が現存している。
平城跡と居館跡が平成十三年(2001年)1月29日に国の史跡に指定され、その後の発掘で新たに確認された部分が、平成十九年(2007年)2月6日に追加指定された。
阿波国の守護所であり、近年の発掘調査でその繁栄の一端をうかがうことができた。現在も断続的に発掘調査が行われている。北側に勝瑞城址公園があり、櫓風の建物が建てられ、花木が植えられている。
【歴史】 承久三年(1221年)の承久の乱の後、阿波守護になった小笠原長清が守護所を設けたのが始まりという。
1362年(南朝:正平十七年、北朝:貞治元年)一月、室町幕府の管領細川清氏は、讒言によって征夷大将軍足利義詮(よしあきら)により追放され、四国に逃れ讃岐国の白峰城に立て篭もり反乱を起こした。
この時阿波の管領細川頼之は秋月城を居城としていたが、幕命によってこれらを討伐し四国を平定し、翌1363年(南朝:正平十八年、北朝:貞治二年)に秋月城から勝瑞城に移った。
管領細川政元(勝元の子)は子が無く、養子として関白九条政基の子である細川澄之、阿波守護家から細川澄元、野洲家からは細川高国の三人を迎えた。
三者間で跡目争いがあり、永正四年(1507年)六月に政元を暗殺する永正の錯乱が起きた。政元を殺害した澄之が家督を継いだが、澄元と重臣の三好之長は兵を挙げ、京に攻めのぼり澄之を討ち取り、澄元が家督を継いだ。
ところが、周防国に逃れていた前10代征夷大将軍足利義材(よしき)は大内義興、細川高国の助けを借り、大軍を率いて上洛した。両軍は永正六年(1509年)六月、如意が嶽の戦いとなったが、澄元と之長は阿波に逃げ帰った。
足利義材は将軍に返り咲き、義伊(よしただ)、義稙(よしたね)と改めた。大内義興、細川高国はそれぞれ管領職に据えられた。
その後両軍は深井の合戦、芦屋河原の合戦、船岡山合戦などの合戦となるが、永正十六年(1519年)十一月の越水城の合戦で細川澄元が勝利、之長が京都を占拠したが、翌永正十七年(1520年)の等持院の戦いで高国の反撃に遭い之長は敗死し、澄元は摂津から播磨国を経由し阿波に逃れたが、その後病没した。
一時期衰えた阿波細川氏であったが、勝瑞城の城主は細川持隆となった。三好之長の孫・三好元長が三好氏の当主となり、次第に勢力を盛り返し、足利義維、細川晴元(澄元の子)を奉じて再挙を図った。
大永六年(1526年)十二月、堺から上陸、桂川原の戦いとなり細川高国を京から駆逐し、享禄四年(1531年)二月中嶋の戦い、大物崩れとなり尼崎で宿敵細川高国を敗死させ、三好元長は細川晴元を管領職につけた。
永正の錯乱から始まった養子三兄弟の争いは、幕を閉じた。
その三好元長は飯盛城の戦いで細川晴元によって滅ぼされてしまった。三好元長の子三好長慶は、江口の戦いで京より細川晴元を追放、13代征夷大将軍に足利義輝を、管領職には細川氏綱を就け中央政権を握った。
天文二十一年(1552年)阿波細川氏は、勝瑞城の城主細川持隆が取り仕切り、三好長慶の弟三好義賢が兵権を握っていた。この頃細川持隆は小少将におぼれ、酒池肉林の生活を続けていたが、小少将が産んだ細川真之をめぐるお家騒動が起きた。
天文二十二年(1553年)、三好義賢は謀反をおこし、細川持隆を自害させ勝瑞城を奪取した。ここに阿波方細川氏は滅亡した。
その後小少将は三好義賢の夫人となり、以降「大形殿」と名を改めた。その三好義賢は永禄五年(1562年)和泉国に出軍し、久米田の戦いで戦死し、その子三好長治が勝瑞城の城主となった。
その後、大形殿はますます妖艶さに磨きがかかり、三好氏の家臣木津城城主篠原自遁(じとん)と通じ、人目をはばからぬ乱倫ぶりであったと伝わっている。
これに憤慨した上桜城主篠原長房が自遁を戒めたが、反感を買い三好長治らにより、上桜城の戦いとなり攻め滅ぼされてしまった。
天正五年(1577年)に三好長治は細川真之を奉じる一宮成助らの軍勢に勝瑞城を追われ、同年三月に長原の地で自害して果てた。
天正十年(1582年)長宗我部元親の侵攻を受け、中富川の戦いとなり最後の城主三好長治の弟三好存保(十河)は讃岐国に敗走し、城は同年九月二十一日廃城となった。
廃城に伴って勝瑞城を防備してきた板西城、姫田城、西条城等の支城も運命を共にした。