出石城 (いずしじょう)
所在地 兵庫県豊岡市出石町内町1 2015.5.17
出石城 (いずしじょう)
所在地 兵庫県豊岡市出石町内町1 2015.5.17
辰鼓楼
太鼓橋・復元門
二の丸高石垣・本丸西隅櫓
二の丸 ・本丸石垣
本丸西隅櫓
本丸・東隅櫓
出石城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 三の丸跡の豊岡市役所 出石総合支所(表記番地)の南に堀川を隔てて出石城がある。
有子山山麓に堀川に登城橋が架けられ、登城門が復元されている。下の郭、西の郭があり上段に二の丸、さらに上段に本丸、その上に稲荷神社の建てられている郭が、階段状に連なっており石垣が良く残っている。また、仙石氏の祖権兵衛秀久公を祀っている感応殿がある。
本丸の東隅櫓・西隅櫓が昭和四十三年に復元され、三の丸大手門石垣上に明治四年に建てられた高さ13mの辰鼓楼(時計台)が建てられている(初めは太鼓で時を知らせ、明治十四年に時計が取り付けられた)。
【歴史】 但馬国守護となった山名時義が、応安五年(1372年)頃、出石神社の北側の此隅山(このすみやま)に、此隅山城を築いた。
此隅山城は長らく山名氏の本拠であったが、永禄十二年(1569年)織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城した。
一旦8代山名祐豊は城を失ったが、今井宗久の仲介によって織田信長と和睦することができ旧領に復帰した。
天正二年(1574年)、山名祐豊は標高321mの有子山山頂に天守を置く有子山城を築き、本拠を此隅山城より本拠を移した。麓には下館も築かれ城下町の体を成した。
しかし、毛利氏方についたため、天正八年(1580年)、羽柴秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城、但馬国山名氏は滅亡した。
有子山城は、しばらく城代の時代が続いたが、天正十三年(1585年)から前野長康、文禄四年(1595年)から小出吉政が城主を務めた。
関ヶ原の戦いにおいて、小出氏は家名存続のため、吉政が西軍、弟・秀家は東軍に分かれて戦ったが、秀家の功績により、吉政の西軍への加担の責任は問われず、出石の領土は安堵された。
慶長九年(1604年)、小出吉政の子・吉英(よしふさ)により有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し幕府に居城として届けた。
それにともない平地に、堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれた。城主の居館も成り、このとき城下町も整備された。山上の旧有子山城天守は、城割は行われなかったが幕府を憚り荒れるに任されたため、樹木が生い茂り一見したところ山林となった。
なお、一国一城令により、但馬守護山名氏以来の出石城が但馬国唯一の城郭となっている。
江戸時代は、出石藩の藩庁となり、8代藩主小出英及(ふさつぐ)が元禄九年(1696年)3歳で死去すると小出氏は無嗣改易となった。代わって松平(藤井)忠周が入城した。
宝永三年(1706年)忠周が転封となると、仙谷政明が入城し、廃藩置県まで仙谷氏の居城となった。江戸末期には仙谷騒動がおこっている。
明治四年(1871年)、廃城令で出石城も取り壊されたが、辰鼓楼が建てられ、堀、石垣などが現存、また隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、堀の周囲一帯は「登城橋河川公園」として整備されて、観光地となっている。