高宮城 (たかみやじょう)
所在地 滋賀県彦根市高宮町2447 2019.6.21
高宮城 (たかみやじょう)
所在地 滋賀県彦根市高宮町2447 2019.6.21
高宮小学校
城跡碑・説明案内板
高宮寺
高宮氏歴代の墓
高宮城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 高宮城は旧中山道高宮宿東に位置する平城で、彦根市立高宮小学校や高宮幼稚園一帯に広がっていたとされる。遺構は消滅している。
【案内】 彦根市立高宮小学校(表記番地)のグランドの北側に城跡碑と説明案内板が建てられている[マップコード101 226 550*81]。
また、高宮幼稚園の北西の高宮寺(彦根市高宮町2335)には、高宮氏歴代の墓がある(地図)。
【歴史】 高宮氏には2系統があった。鎌倉時代に地頭として入部した紀州櫟(いちい)氏の左衛門尉宗忠を祖とする高宮氏(北殿)と、江南の六角氏頼の3男信高を祖とする高宮氏(南殿)があった。高宮左衛門尉宗忠は高宮寺を建立している。
南殿の信高が当地に入ると北殿の高宮氏は衰退していった。南殿の高宮氏の系統が、高宮城を築き代々の居城となった。
高宮氏は当初は六角氏と行動を共にしていたが、永禄二年(1559年)高宮三河守頼勝が久徳左近太夫実時からの六角氏への内応に応じず、そのため六角氏に攻められて落城した。
翌年、その報復として浅井氏に与し久徳城を攻め、高宮城を奪還した。
天正元年(1573年)織田信長による小谷城攻めでは、浅井氏と命運を共にした。
高宮宗光は小谷城で戦死し、その子・宗久は小谷城を 脱出して高宮城に戻り、城に火を放って一族離散したと伝えられている。
浪人となった高宮宗久は、美濃高須城主の高木盛兼に仕え、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに西軍として参戦したとされる。