岡山城 (おかやまじょう) (金烏城・烏城)(うじょう) (国の史跡・日本100名城70)
所在地 岡山県岡山市北区丸の内2-3-1 2011.10.8 2015.5.4
岡山城 (おかやまじょう) (金烏城・烏城)(うじょう) (国の史跡・日本100名城70)
所在地 岡山県岡山市北区丸の内2-3-1 2011.10.8 2015.5.4
本丸石垣・不明門
鉄門跡
不明門
復元廊下門・石垣
月見櫓
外観復元天守
岡山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 県庁通り「県庁前」交差点より北に行くと内堀に出、西に行くと、有料駐車場が設けられている[マップコード19 892 222*54] (地図)。
旭川に突き出た台地上にあり、北の対岸の名勝後楽園とは橋で結ばれている。
本丸は内堀の中に三段の郭で構成されている。本丸の北に廊下門(昭和四十一年・鉄筋コンクリート造)があり、西に当時のまま二重月見櫓(国の重要文化財)が残り、東に壮観な複合式望楼型四重六階天守(昭和四十一年・鉄筋コンクリート造)が建てられている。
天守は昭和二十年6月の戦災で焼失し、その礎石は前方右手に移動して展示されている。内部は博物館になっており展望台から旭川、後楽園や岡山の市街が望める。
南に不明門(あかずのもん)のある高石垣があり、鉄門(くろがねもん)跡虎口石垣や内堀がある。二の丸は現在の「北区丸の内・内山下」の内、本丸を除いた部分であった。
昭和六十二年(1987年)5月30日、「岡山城跡」として国の史跡に指定され、平成十九年(2007年)2月6日、追加指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(70番)に選定された。
【歴史】 南北朝時代の正平年間(1346~70年)に、名和氏の一族上神高直が石山台(岡山)に築いたと言われている。その後およそ 150年間の城主は明らかではない。
戦国時代の大永年間(1521~28年)には、金光氏が居城し、金川城主の松田氏に仕えていた。
元亀元年(1570年)、宇喜多直家が金光宗高を謀殺し、この地を支配した。天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である備前亀山城(沼城)から石山城(岡山城)に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。
直家の子・宇喜多秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4千石の大大名となり、石山城を8年間にわたり大改修し、東の岡山を本丸とし、近世城郭の体裁を整えた。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いで、西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となった。
代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城し、「廿日堀」(現在の国道53号の南北部分)を造った。
秀秋は二年後の慶長七年(1602年)十月に岡山で急死し、嗣子がなく小早川家は断絶した。
慶長八年(1603年)、備前28万石は姫路城主・池田輝政の次男忠継に与えられたが、幼少(五歳)であったので兄の利隆が「備前監国」として代政した。利隆は「石山」の西端の西之丸を整備したと言われている。
慶長十八年(1613年)に忠継は岡山城に入ったが、慶長二十年(1615年)に死去した。
元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄が淡路島より31万5千石で入封した。幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院を設けた。また大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなど、ここに岡山城の縄張りが完成した。月見櫓はこの頃の創建とされた。
寛永九年、(1632年)忠雄の子・光仲が鳥取城へ転封し、入れ代わって鳥取から池田光政が31万5千石で入封した。
池田光政は利隆の子であり、姫路城で生まれたが、父の死後元和三年(1617年)に鳥取城主となっていた。以後、幕末まで光政系池田氏の居城となった。
貞享四年(1687年)からは光政の子・池田綱政により14年の歳月をかけて後楽園を造営した。周囲を土塁と竹垣で囲み、庭園の形をとるものの、城を守る郭の役割を期待していたとされる。ともに郡代津田永忠によるものであり、永忠は閑谷学校、藩の新田開発などにも手腕を発揮した。
明治二年(1869年)の版籍奉還により藩主・池田章政は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は藩の府城たる役割を終えて兵部省管轄、つまり存城となった。
明治六年の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われ、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなった。
昭和二十年(1945年)6月29日のアメリカ軍による岡山空襲で天守・石山門を焼失した。
昭和二十五年(1950年)文化財保護法の施行により、焼け残った月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定された。