富隈城 (とみくまじょう)
所在地 鹿児島県霧島市隼人町住吉1882 2014.9.10
富隈城 (とみくまじょう)
所在地 鹿児島県霧島市隼人町住吉1882 2014.9.10
稲荷山公園・東側石垣
稲荷山公園
富隈城跡碑
天守台・四阿
稲荷神社
富隈城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 稲荷山公園及び「NHK鹿児島放送局隼人ラジオ放送所」(表記番地)敷地となっている[マップコード42 508 830*31]。
稲荷神社があり東側、北側に堀跡が埋められ道路となり、その石垣がよく残っている。
公園中央の天守台には四阿が建てられ、四方を一望でき、一段下がった東に「富隈城跡」の石碑が建てられている。
小山を本丸代わりとした平山城で東西約150m南北約250mの方形をしている。
【歴史】 豊臣秀吉の九州征伐(島津征伐)に敗れ、強制的に隠居させられた島津義久は、それまで居城としていた内城を、弟義弘の子家久に譲り退去した。
文禄四年(1595年)、急遽薩摩国と大隅国の境に位置し、港に近いこの地に屋形を築いた。これが富隈城である。
通常島津氏の城は裏山に後詰めの山城があるが、この富隈城にはそれに当たる物が無く、秀吉に対して恭順の意を表したとも、或いは秀吉に圧力を掛けられたとも言われている。
高さ30mの丘の上に屋敷があるだけで、防御面には非常に弱い城であった。義久在城の間、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなどが相次ぎ起こり、日本は激動の時であり、島津氏にとって苦難の時代であった。
義弘が関ヶ原の戦いで家康の本陣を突き、敵中突破して僅かの家臣と辿り着き兄義久と対面したのもこの富隈城であった。
江戸時代の慶長九年(1604年)、島津義久は隣の国分に新しく国分城を築いて移り、富隈城は廃城となった。
義久がこの地に移転したのは不本意なことであったらしいが、その僅かな在城期間に城下の浜之市の港を整備して商人を招き、江戸時代には坊津、山川等と並ぶ薩摩藩内では栄えた港の一つとなった。
この地で行った開発を義久は国分で引き続き行っており、実験的な城下町の一つだったと考えられる。
現在は石垣のみが残っており、北側には公園ができている。南東隅の石は加藤清正が寄進したものと伝わる。
永和元年(1375年)大隅守護、第六代島津氏久が、それまであった住吉神社に島津家の元祖忠久・忠久夫人と合わせ祀って一ノ宮大明神とした。
慶長四年(1599年)義久が島津家氏神の稲荷神を合祀して稲荷神社と称した。