若山城 (わかやまじょう) (県の史跡)
所在地 山口県周南市若山1 2016.5.17
若山城 (わかやまじょう) (県の史跡)
所在地 山口県周南市若山1 2016.5.17
登城ルート(赤丸は本丸/緑丸は西の丸/緑線は車道)
二の丸跡・駐車場
三の丸跡
空堀
本丸跡
西の丸石垣
蔵屋敷跡
若山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高190m】
【案内・感想 】 国道2号線「若山」交差点の西100mより北に専用道路を約1.7km行くと駐車場が用意されている[マップコード646 597 649*06]。駐車場が二の丸跡でその先に三の丸跡が地続きに広がっている。
鳥居を潜り登ってゆくと、標高217m山頂の本丸跡で、「若山城跡」の石碑や「石鎚神社」が建てられている。北側に空堀・畝状竪堀が多く残っている。
西側に馬場のような平坦地があり、石垣の残る「西の丸跡」、「蔵屋敷跡」が連なっている。
昭和六十二年(1987年)3月27日、山口県の史跡に指定された。
【歴史】 文明二年(1470年)、応仁の乱で大内政弘が西軍の将として京に出陣中、政弘の伯父である大内教幸(のりゆき)が東軍に通じ反乱を起こした(道頓の乱)。
吉見氏など石見の国人もこの乱に呼応したため、大内領国の守りに就いていた陶弘護(ひろもり・陶氏7代)は防備のため若山城を築いた。陶弘護は大内教幸を破り反乱を鎮圧したが、後年宴の席で吉見信頼に刺殺された。
天文十九年(1550年)に主君大内義隆と対立した陶隆房(晴賢)が、謀叛に備え城の修築を行った。翌年、陶隆房が若山城にて挙兵した。山口を襲って義隆を自害に追い込んだのち(大寧寺の変)、大友晴英(義隆の甥)を豊後国から迎え大内義長として擁立、自身は晴賢と名を改め大内氏の実権を握った。
天文二十四年(1555年)、安芸国へ軍を進めた陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に大敗し自害した。
若山城を守る晴賢の子長房は晴賢に遺恨のあった杉重輔とその手勢200余人に急襲され三の郭を占拠された。長房は城を脱出したが追撃され自刃(長房の死はほかに1556年・1557年など諸説あり)した。
同年より毛利氏の防長経略が始まり、弘治三年(1557年)、陶長房亡き後は陶氏の遺臣が若山城を守っていたが、毛利方の降伏勧告に応じたため長屋小次郎を城番とし城兵200余人でこれを守備した。
そこに山口方面より陶方の兵2千余人が押し寄せ、降伏した遺臣もこれに呼応し城内に火を放ったため落城となった。その後、大内氏を滅ぼして防長二州を制圧した毛利氏により廃城とされた。