梶山城 (かじやまじょう)
最寄地 宮崎県北諸県郡三股町長田2876 2014.9.10 2019.3.6
梶山城 (かじやまじょう)
最寄地 宮崎県北諸県郡三股町長田2876 2014.9.10 2019.3.6
登城ルート(青は大昌寺跡)
北郷久秀・忠通の墓
登り口(右へ)
虎口
主郭切岸
主郭
東の2段の郭(奥が主郭)
東側の大堀切
梶山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【感想】 三股町立梶山小学校北側の標高244mの丘陵に築かれている。5年後に訪れて見ると、整備されよく城跡が見られた。主郭は1本の樹木の立つ最高所でその東と西に2段の郭があり、東の郭には土塁が見られ、東端に深い大堀切がよく残っている。
【案内】 三股町立梶山小学校(表記番地)の北の駐車場が利用できる[マップコード117 557 172*66]。北に公民館前の道を行くと間もなく、大昌寺跡がある(地図)。
跡地に「北郷(ほんごう)久秀・忠通の墓」や久秀が死ぬ前に座ったとされる「腰掛石」があり、三股町の文化財に指定されている。
その横より北に500mほど行き時計廻りに登ると草地に土塁で分けられた標高244m比高約40mの梶山城跡がある。
空堀で隔てられた四つの曲輪から構成され、「内城」「二の丸」「中の丸(仮屋城)」「杖房」という呼称が付いている。 遺構としては、大手口、虎口、大土塁、大横堀(地図)、 堀切のほか、四重の横掘等が残されている。
【歴史】 樺山氏初代である樺山資久の築城と伝わるが、詳細は不明である。 永和元年 / 天授元年八月二十六日(1375年9月22日)の水島の変に端を発する島津氏久方と今川了俊方の争いが続いた。
応永元年 / 明徳五年(1394年)、北郷(ほんごう)義久が和田正覚と高木氏を梶山城に配したところ、今川了俊の四男 尾崎貞兼と今川方の国人、相良氏・伊東氏・土持氏・北原氏らに攻められた。
これに対し、島津氏及び北郷義久は救援として、北郷義久の三男の北郷久秀及び四男の北郷忠通(忠道)を派遣したが、久秀及び忠通は討死し、梶山城は落城した。
嘉吉元年(1441年)以降、梶山城は、豊州家島津氏の支配となり、伊東氏との間で争奪戦が繰り広げられたが、明応四年(1495年)の和議により、三保院一千町歩が伊東氏に明け渡され、高城、野々美谷城、山之口城と共に伊東氏の所領となった(ただし、『日向記』によると、永正元年(1504年)まで梶山城は伊東氏に属していないとの記述あり)。
享禄三年(1530年)頃には、山之口城、高城、勝岡城などとともに庄内三俣の八外城の一つとされていた。
その後、北郷忠相は、三俣院を奪還すべく、伊東氏と一進一退の戦いを繰り広げ、天文元年(1532年)、島津忠朝・北原久兼と密約を交わし、三軍で伊東氏領の三俣院高城を襲撃し、伊東軍に壊滅的打撃を与えた(不動寺馬場の戦い)。
伊東氏はこの敗戦に加え、家中に内紛が発生したことで三俣院の維持が困難となり、天文三年(1534年)、北郷忠相は梶山城を奪還した。
豊臣秀吉の九州征伐後の文禄三年(1594年)、島津家領内で検地が行われると、北郷氏は祁答院(けどういん)へ移され、伊集院氏の所領となった。
慶長四年(1599年)に起きた 庄内の乱では、梶山城は伊集院忠真の都之城を本城とする十二外城の一つとして、城主野邊彦一を中心に、野邊金左衛門、谷口丹波、谷口伊予らが立て篭もったが、慶長五年(1600年)二月二十九日に降伏開城した。降伏後、忠真は頴娃(えい)1万石へ移され、都城には旧領主であった北郷氏が復帰し乱は終結した。
慶長二十年(1615年)の一国一城令により廃城となった。