立花山城 (たちばなやまじょう/りっかさんじょう)
最寄地 福岡県新宮町立花口1670 2017.5.8
立花山城 (たちばなやまじょう/りっかさんじょう)
最寄地 福岡県新宮町立花口1670 2017.5.8
登城ルート
登り口
石垣
石垣
西の郭
本丸
井戸
立花山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高230m】
【感想】 博多湾の東約4kmの標高367mの立花山山頂に本丸があり、北西の松尾山も含めた広大な城域を持つ。案内図には松尾山の下にも石垣が記されている。
福岡城築城の際、石垣の石は持ち去られ、わずかに残った石垣が往時を偲ばせる。
【案内】 県道540号線より100mほど西に立花山駐車場が用意されている[マップコード13 657 722*74](地図)。
西へ100mほど行き左折、約200m行くと登り口があり、案内板が建てられている(地図)。頂上へは約50分の道のりである。
頂上に本丸があり、説明板が建てられている。樹木がほとんどなく、眺望は良く博多湾が望める。訪れるハイカーも多い。
西側の郭の西斜面に石垣が3、4ヶ所見られ、北側に下った所に井戸が残っている。
【歴史】 元徳二年(1330年)に豊後国守護の大友貞宗の次男大友貞載(さだとし)が築き、この地に拠ったことにより立花氏を称するようにもなった。
港町博多を見下ろす非常に重要な拠点であり、戦国時代には大内氏や毛利氏と大友氏の激闘地であった。
立花鑑載(あきとし)の代、永禄八年(1565年)、永禄十一年(1568年)の二度にわたり、毛利氏に与し大友氏に反乱を起こして滅亡した。その後、豊後より大友氏の一族戸次鑑連(べっきあきつら:のち道雪)が入城し、後にその養子統虎(後の立花宗茂)は、立花姓を引き継いだ。
戦国末期の天正十四年(1586年)七月末には、当時弱冠20歳の立花統虎(後の立花宗茂)がこの城に籠り、実父高橋紹運の岩屋城を落とした島津勢約4万の侵攻に徹底抗戦した。
豊臣秀吉の九州征伐の後、天正十五年(1587年)立花統虎は筑後国柳川城へと移封となり、新たな城主として小早川隆景の重臣乃美宗勝が預かった。
城としての機能よりも、経済的意義が求められるようになると山城である立花山城は存在意義を失い、名島城築城後は支城に、その後黒田長政が慶長六年(1601年)に福岡城を築いた後は廃された。石垣は福岡城の石垣に転用された。