土佐泊城 (とさどまりじょう)
最寄地 徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦高砂5 2014.5.17
土佐泊城 (とさどまりじょう)
最寄地 徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦高砂5 2014.5.17
登城ルート
病院南東の登り口
主曲輪
櫓台
櫓台の石垣
鳴門海峡方面
土佐泊城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【案内・感想】 大毛島の南東の土佐泊漁港南東の標高76mの山頂にあり、頂上まで車道があるが工事中である。南海病院(表記番地)の駐車場を利用した[マップコード406 060 307*60]。
徒歩で南海病院の中を抜け南の比高約60mの山に階段が設けられている(地図)。途中南海病院の給水・広告塔がある。
頂上に広場があり中央に一段高く櫓台があり、北側に石垣が残っている。また、頂上からは鳴門海峡を望む絶景が広がっている。
【歴史】 天文年間(1532~55年)に、名東郡黒田村から板野郡土佐泊に移った森元村によって築城された。
讃岐に攻められたが撃退し、その後、讃岐に攻め込み反撃したことで武将の名を挙げた。
天文八年(1539年)に細川晴元に従い河野氏と戦い、海賊衆を率いてこれに参戦した。
天正十三年(1585年)、二代目城主である森志摩守村春のときに、蜂須賀家政が阿波国の領主となると、蜂須賀氏家臣となって阿波福井庄3026石を所領安堵された。
森村春は九州征伐や小田原征伐にも参戦し、主君の武功を支えたが、天正二十年(1592年)文禄の役で戦死した。
村春の弟は村吉、子は忠村である。村吉の長子・森村重は森甚五兵衛家を興し、強大な水軍を持ち、大阪の役で戦功を挙げ、全国に知れ渡った。
蜂須賀氏は水軍を持たなかったため、森氏は17代にわたって阿波水軍の地位を世襲し、明治元年(1868年)の明治維新まで蜂須賀氏に仕えた。