楪城 (ゆずりはじょう) (新見城)
最寄地 岡山県新見市上市1734 2019.5.1
楪城 (ゆずりはじょう) (新見城)
最寄地 岡山県新見市上市1734 2019.5.1
登城ルート(緑線は車道)
駐車場手前の道
本丸虎口
本丸・城址碑
二の丸
二の丸南の堀切
三の丸
石積井戸
楪城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高140m】
【感想】 高梁川と矢谷川に挟まれた標高500mの山頂に本丸がある。北西に2段、南東に1段の郭があり北西の堀切は遊歩道整備で改変され、平らになっている。本丸は新見氏時代のものとされる。
三村氏時代に2の丸、3の丸が増築され、堀切が2条残っている。樹木は少なく見通しが効き、説明板も要所に建てられ見やすくなっている。
【案内】 国道180号線より約1.6kmの舗装道を行き、右に下って100m行った表記番地の先に見学者用駐車場がある[マップコード418 111 412*44](地図)。坂道の手前にも駐車できる。
登り口の少し先に説明板が建てられ、鋪装された遊歩道が尾根まで続いている。北西に2段の郭、最高所に本丸があり、「楪城址」の石碑が建てられている。
本丸の南に花(端)の壇、南東に尾根を削平した帯郭があり、2の丸の台地に続いている。
2の丸の南に堀切があり、南に歩くと堀切、3の丸の台地に至る。3の丸には半分崩れた石積井戸が残っている。
【歴史】 鎌倉時代末期の正応元年(1288年)~永仁元年(1293年)頃に新見氏によって築城されたと云われる。
その後、戦国時代に最後の城主新見蔵人貞経は、三村氏に攻められ、落城後行方不明となった。
代わって、永禄十年(1567年)三村元範が城主となった。
天正三年(1575年)の備中兵乱で毛利方の小早川隆景を総大将として2万騎の大軍が押し寄せ、宍戸備前守と中島大炊介元行の攻撃で落城した。
元範は10騎ばかりで落ち延びたが、高尾の石指で、塩山城主・多治部雅楽頭景春が50騎で追い駆けて来、戦いの末討たれた。
その後、毛利方の吉川元春のものとなり、元春の家来今田上野介経高を在番とした。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍の毛利方は敗れ、楪城は廃城となった。