岸岳城 (きしだけじょう) (鬼子岳城・貴志岳城) (県の史跡)
所在地 佐賀県唐津市相知町佐里 2017.5.12 2018.5.3
岸岳城 (きしだけじょう) (鬼子岳城・貴志岳城) (県の史跡)
所在地 佐賀県唐津市相知町佐里 2017.5.12 2018.5.3
登城ルート(緑線は車道)
おまん塚
登り口・左奥に駐車場
伝旗竿石
三の堀切
三の丸
二の堀切・石垣
二の丸・土塁
本丸
三左衛門殿丸の石垣
一の堀切
岸岳城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高140m(北駐車場より)】
【感想】 唐津市相知町の標高320mの急峻な岸岳の山上に、東西に3ヶ所の堀切で区切られた3つの主要郭が築かれている。
約1kmに及ぶ長大な連郭式の山城で、岩場を利用した三の堀切、石垣で補強された二の堀切、急峻な一の堀切は凄いの一言に尽きる。その他、井戸や三左衛門殿の石垣など見所は多い。
北西端には旗竿岩があり、東端には「姫落し」と呼ばれる絶壁の岩場、抜け穴が残っている。
【案内】 国道203号線「山本跨線橋」に「岸岳城跡」の標識があり、県道52号線鵜を西へ約3.4㎞行く。標識に従い約700m南を左折、約3.5㎞登ると「岸岳城跡」の標識のある分れがある[マップコード182 071 076*23](地図)。
そこより左に250mほど行くと、案内図や説明板が建てられ、駐車場が南北2ヶ所に用意され、登り口の標柱がある[マップコード182 071 262*71](地図)。
昭和四十九年(1974年)9月14日、長崎県の史跡に指定された。
地図には分れから南側の農免農道とつながっていないが、実際は舗装道で結ばれている。分れを右に約900m東に行くと、おまん塚がある[マップコード182 072 015*50](地図)。
【おまん塚】 『相知町史』によれば、お万は波多氏に仕えた容姿端麗な御殿女中で、お家の重宝の皿を預かっていた。時の家老はお万に恋慕したが叶わず皿の一枚を隠した。そしてその落ち度を責め殺したという。
【歴史】 松浦久の二男の松浦持(たもつ)が波多の地に移り康和四年(1102年)から波多持と名乗り、岸岳城を本拠として発展した。上松浦党の盟主であった波多氏17代450年の居城であった。
最後の当主波多親(肥前松浦8万石)は有馬氏の養子であったが、有馬氏が衰退すると龍造寺隆信へ従属し、その勢力を保持した。
龍造寺隆信が戦死すると薩摩より九州一円を制覇しつつあった島津氏寄りとなる。そのため、豊臣秀吉の九州征伐の際、秀吉への臣従の姿勢をはっきりさせず改易されかかったが、その時は鍋島直茂のとりなしにより許された。
しかし、朝鮮出兵の時、鍋島直茂に従うよう命ぜられたが、それに反発、出陣後に独自行動をとったため、文禄二年(1593年)に秀吉から知行を没収され、大名としての波多氏は滅亡した。