福知山城 (ふくちやまじょう) (掻上城・横山城・臥龍城・八幡城・福智山城)
所在地 京都府福知山市内記5 2012.5.9 2017.3.25
福知山城 (ふくちやまじょう) (掻上城・横山城・臥龍城・八幡城・福智山城)
所在地 京都府福知山市内記5 2012.5.9 2017.3.25
東側石垣
本丸東側石垣
復元大天守(南面)
小天守・大天守(西面)
豐磐(とよいわ)の井
南西側石垣
福知山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 現在は、福知山城公園として整備され、堀川を挟んだ東側に駐車場が用意されている[マップコード165 766 150*48]。
野面積の高石垣があり、東側の堀川に架かる太鼓橋を渡り築地塀の道を登ると本丸跡である。
三重三階の大天守と二重二階の小天守が昭和六十一年(1986年)に、野面積の石垣天守台に外観復元(鉄筋コンクリート造)され、福知山市郷土資料館(表記番地)となっている。
本丸には井戸(豐磐の井・深さ50m)が残り、北側には朝暉神社が祀られている。本丸の北東公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館がある。
【歴史】 小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われている。
畿内を制した織田信長は、羽柴秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。秀吉は山陽道から進軍したのに対し、山陰道側より入り丹波国を平定した明智光秀が、天正七年(1579年)福知山城を築城し、女婿の明智秀満を城主とした。
天正十年(1582年)六月の本能寺の変後、福知山城は亀山城の豊臣秀勝が城主となり、次いで杉原家次、そして小野木重勝が城主となった。
豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍に属していた細川幽斎、忠興父子が立て篭もる田辺城を攻めた。
この時細川忠興は関東に出陣中で、細川幽斎が留守居役で田辺城の戦いとなり必死に防戦した末に和議にこぎつけた。
関ヶ原の戦いの勝敗が決すると、家康の許しを得て、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝を敗り、亀山城下の寿仙院で切腹させた。
関ヶ原の戦いの功により有馬豊氏は福知山城に入城し、慶長七年(1602年)父有馬則頼が没すると三田城主も併せて継承した。福知山の現在のような城郭や城下町はこの時代に完成した。
しかし元和六年(1620年)十二月、武功を重ねた豊氏は久留米藩(久留米城)に加増転封され、元和七年八月岡部長盛が亀山城から移った。
三年後その岡部長盛も大垣藩に転封すると、稲葉紀通が摂津国中島藩より移った。
その稲葉紀通も福知山城の城主となった二十四年後の慶安元年(1648年)、宮津藩の京極高広と争いとなり、乱心し自殺したと伝わっている。翌、慶安二年(1649年)二月刈谷藩から松平忠房が入部してきた。
二十年程統治したが島原藩へ転封となった。寛文九年(1669年)六月、土浦城の朽木稙昌が入部し、幕末の明治二年(1869年)に至る約200年の長きに亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治した。
明治四年(1871年)福知山城は廃城となった。