田中城 (たなかじょう) (国の史跡)
最寄地 熊本県玉名郡和水町和仁781 2014.5.9
田中城 (たなかじょう) (国の史跡)
最寄地 熊本県玉名郡和水町和仁781 2014.5.9
田中城遠景・和仁親宗の碑
城門
二の丸跡
主郭・城跡碑
主郭東下の帯曲輪
空堀・西捨曲輪
田中城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高30m】
【案内・感想】 和水町立春富小学校(表記番地)の東約400mに見学駐車場がある[マップコード 69 596 203*04 ]。南の標高104m比高約30mの独立丘陵に田中城跡がある。
駐車場付近の三の丸跡に「和仁城和仁人鬼親宗の碑」の石碑が建てられ、そこから主郭北の駐車場まで車でもゆける。
主郭東側に空堀(薬研堀)があり二の丸に復元城門があり、主郭には城跡碑や建物の柱の位置に柘植が植えられている。
主郭の一段下に西側を除く三方に曲輪がある。空堀で隔てられた西捨曲輪や監視台跡、南に井戸跡がある。東側の水田の中を流れる小田川周辺で発掘調査が行われていて、聞くと製鉄の痕跡が見つかっているとのことであった。
平成十四年(2002年)3月19日、国の史跡に指定された。
【歴史】 肥後国では菊池氏が衰退した後、戦国期は国人割拠状態が続き、和仁氏も肥後国の国人の一つだった。
和仁氏は古代中央豪族・和珥氏(和邇氏)の末裔とされるが和仁氏が滅んでしまった為、何時から肥後に土着したかその歴史は不明である。
豊臣秀吉の九州征伐後の天正十五年(1587年)六月、佐々成政が肥後国主に任じられ、検地を行おうとしたが肥後の国人は服さず、翌月には隈部親永が兵を挙げて肥後国人一揆が始まった。
和仁氏当主の和仁親実もこの動きに呼応し、弟の親範と親宗および姉婿の辺春親行(へばるちかゆき)と共に、兵約900名が田中城の守備を固めた。
佐々成政は肥後の各地で離反した国人を単独で鎮圧できず援護の兵を請い、豊臣秀吉は同年九月、西国大名に出兵を命じ一揆の鎮圧に向かわせた。
田中城に対しては、小早川秀包(ひでかね)を主将として、安国寺恵瓊(えけい)・鍋島直茂・立花宗茂・筑紫広門など計1万余の軍勢が振り向けられ十月二十八日に到着し、城の周囲に二重の柵を築いて包囲戦に入った。
和仁氏は十倍する攻め手からよく城を守ったが、安国寺恵瓊による内応工作による辺春親行の裏切りもあり、十二月五日ついに落城して和仁氏は滅ぼされた。
戦の際は本丸に親実、親範、三の丸に親宗が布陣しており、激戦の末生き残ったのが人鬼親宗であったといわれ、和仁方は全滅に近かった。東の小田川には十日間血で染まり、別名「血波川」と呼ばれている。