建昌城 (けんしょうじょう) (県の史跡)
所在地 鹿児島県姶良市西餅田2185‐57 2015.5.10
建昌城 (けんしょうじょう) (県の史跡)
所在地 鹿児島県姶良市西餅田2185‐57 2015.5.10
縄張り図
登城ルート(緑線は車道/緑丸は二の丸)
本丸・土塁
本丸二の丸間空堀
二の丸・土塁
本丸・馬乗り馬場
東の丸・土塁
建昌城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 標高約100mの台地上の建昌城跡管理事務所(表記番地)前に駐車場が用意されている[マップコード42 523 261*72] 。
駐車場の西の「西の丸」は、市民農園として利用され、区画された菜園、花園となっている。
南に行くと、東西に「馬乗り馬場」と呼ばれる大空堀があり、南北に曲輪が並んでいる。
馬場の北側に西より、「櫓の丸」、「本丸」、「二の丸」(地図)、「前の丸」、「胡麻ヶ城」と並び、夫々空堀で分けられている。
「前の丸」の北東角に大手が通じている。また馬場の南側に西より、「南の丸」「常見の丸」「東の丸」が並び、夫々空堀で分けられている。
本丸、二の丸、前の丸の馬場側に土塁が良く残り、東の丸の西側に土塁が良く残っている。
平成二十三年(2011年)4月19日、鹿児島県の史跡に指定された。
【歴史】 室町時代の享徳年間(1452~55年)、島津家9代忠国の弟・豊後守季久は平山武豊の平山城を攻め落とし、帖佐郷を領有した。
島津季久は新たに瓜生野城(建昌城の前身)を築き、長男忠廉(ただかど)と共に移り住んだ。
次男忠康を平山城に、三男満久を加治木城に置き、有力な国人領主として一帯に勢力を張った。
季久の死後、二代忠廉は文明十八年(1486年)飫肥城に移され、瓜生野城は廃城となった。その後、帖佐は各勢力の争奪の地となった。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、第18代当主島津家久は瓜生野城を鹿児島本城の候補に挙げたが、父島津義弘の反対にあい、鹿児島に上山城・鶴丸城を築くこととなった。
慶長十九年(1614年)には「建昌城」という名で再び現れるが、これ以降歴史の表舞台から姿を消し、わずかに江戸時代に書かれた『帖佐由来記』によって、その概要を知ることが出来る。
大小32の曲輪が標高90~110mの間に配置されている。
【発掘調査】 平成十一年度から十六年度に発掘調査が実施され、育雛センター跡地(駐車場南隣接地)から約一万三千年前の縄文時代草創期と約九千五百年前の縄文時代早期の遺構、遺物が発見され、南九州を代表する貴重な集落遺跡であることが判明した。