朝倉城 (あさくらじょう) (重松城) (県の史跡)
最寄地 高知県高知市朝倉丁180-1 2018.3.9
朝倉城 (あさくらじょう) (重松城) (県の史跡)
最寄地 高知県高知市朝倉丁180-1 2018.3.9
配置図
登城ルート(緑線は車道)
登り口標柱
三の段
二の段・石垣
詰の段虎口付近
詰の段
詰西ノ段西の堀切
石垣の井戸
朝倉城 詰ノ段跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【感想】 高知市朝倉の標高106mの城山に築かれており、詰の段を中心に南東下段に2の段、3の段を配置した山城となっている。
西側の広い堀切は草木ではっきりしない。また詰西の段も畑となっていたようでこれも不明瞭である。その西の堀切は深く池のような低湿地に続いている。
井戸の石垣は、昭和21年(1946年)の南海大地震で崩れた為、地元の人により積みなおされたという。
【案内】 県道18号線に「朝倉城跡登り口」の標識があり、西へ登って行った「北城山公民館」に案内図が建てられ、駐車出来る[マップコード181 778 213*53]。公民館の西の道を北へ約160m行くと写真の登り口がある(地図)。
畑の間を登ってゆくと左側に竹林の中に竪堀があり、竹の伐採中であった。その先に3の段、石垣のある2の段があり、最高所に詰の段がある。詰には土塁が残り、城址碑、説明板、配置図が建てられている。西の堀切の北側に石垣のある井戸が残っている。
昭和二十八年(1953年)1月29日、高知県の史跡に指定された。
【歴史】 本山城主本山茂宗(梅慶)は、天文九年(1540年)に朝倉城を居城として土佐中央部に進出した。その後、長宗我部氏や土佐一条氏と土佐国の覇権をめぐって争い続けた。
永禄五年(1562年)には長宗我部元親が3,000人の兵を率いて当城を攻め、本山茂辰(しげとき)はこれを撃退した。
しかし翌永禄六年(1563年)一月に本山城に退去した際に当城は焼かれ、廃城となった。