広島城 (ひろしまじょう) (鯉城・在間城・当麻城 )(たいまじょう) (国の史跡・日本100名城73)
所在地 広島県島市中区基町21 2011.10.7
広島城 (ひろしまじょう) (鯉城・在間城・当麻城 )(たいまじょう) (国の史跡・日本100名城73)
所在地 広島県島市中区基町21 2011.10.7
角馬出・表御門・櫓・多聞櫓
本丸石垣
廣島護国神社
大本営跡
天守南面
内堀・天守北面
広島城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 国道54号線「広島城南」交差点より東に200m行った「合同庁舎前」交差点を右折し50m先を右折した有料「広島市中央駐車場」が利用できる[マップコード22 220 349*18]。
広島城の南西の噴水のある公園から入る(一般:370円)。堀の中の約40×60mの二の丸(角馬出)跡(地図)に表御門や平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が復元(平成元年)され、内部はつながっており、観覧できる。土橋の中御門の手前に原爆で焼け残ったユーカリの木がある。
ユーカリの樹に焦げ目あり広島忌
巾30~50mの内堀を渡ると、本丸南西に「広島護国神社」が建立され、「明治二十七八年戦役広島大本営」の石碑と建物石段が残り、北西隅に五重五階天守が鉄筋コンクリート造で復元(昭和三十三年)され、博物館・展望台として利用されている。
昭和二十八年(1953年)3月31日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(73番)に選定された。
【歴史】 承久の乱(1221年)以降、その戦功により安芸国守護に命じられた武田氏により当地は治められていたが、戦国時代になると毛利元就が武田氏を滅ぼし、天文二十四年(1555年)十月、厳島の戦いで陶晴賢(大内氏家臣)に勝利したことにより、以降当地は毛利氏によって支配されることになった。
天正十六年(1588年)、毛利輝元は豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景や吉川広家らと上洛し、大阪城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている。
天正十七年(1589年)二月、毛利輝元は築城候補の現地調査のため吉田郡山を出発し、明星院山(現東区二葉山)・新山(現東区牛田)・己斐松山(現西区己斐)の三箇所に登り、太田川下流域を検地した結果、「最も広い島地」である五箇村に築城することに決めた。
同年四月十五日鍬入れ式をし築城が開始された。文禄二年(1593年)石垣が完成、慶長四年(1599年)に落成した。完成当初は、堀は三重に巡らされ、馬出を多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模の城だったといわれる。
関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって、慶長五年(1600年)城主となった福島正則による改築があった。
元和五年(1619年)正則は洪水による被害の修復を、幕府から武家諸法度を破った無届け改築と咎められ改易され、信濃国川中島から越後国魚沼にかけての高井野藩4万5千石(福島正則館)へ転封された。
同年八月八日浅野長晟が入城以降、浅野氏の居城となり、明治維新まで十二代約250年間続いた。
慶応四年(1868年)戊辰戦争で広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はなかった。
明治四年(1871年)七月十四日、廃藩置県で浅野氏による藩政体制は終りをつげ広島県が発足し、本丸に広島県庁舎が設置された。
明治六年一月、広島鎮台が正式に発足し、以降広島城には大日本帝国陸軍の施設が建てられた。
明治二十七年(1894年)7月、日清戦争が勃発すると城内に広島大本営が設置された。同年9月15日から翌年4月27日まで明治天皇は広島に行幸した。これに伴い第七回帝国議会も広島で召集され、短期間ながら臨時首都として機能した。
太平洋戦争末期には本土決戦に備え、昭和二十年(1945年)4月第二総軍司令部が二葉山麓の東練兵場そばにあった元騎兵第五連隊兵舎に置かれた。
【原爆投下】 昭和二十年(1945年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍による広島市への原子爆弾が投下された。
軍事施設が集中していたことから、破壊目標となった。広島城は爆心地から約1㎞北に離れていたが、 建物が爆風により一瞬にして倒壊、火災により焼失した。天守は爆風や火災によるものではなく、自壊している。
樹木は、根こそぎ引きぬかれたり、裂けたり折れたりしたものが多数だった。兵士は食事中あるいは朝礼最中の事で、彼らは軽々と吹き飛び、あるものは即死、またあるものは倒壊した建物により圧死した。生き残ったものはほぼ北へ逃げている。
当時ここ一帯には約1万人の兵士がいたが、建物と共にすべての部隊は壊滅した。唯一倒壊せず原型をとどめていた建物が防空作戦室だった。ここから被爆の第一報が発信された。「6日午前8時16分頃、敵の大型機一機ないし二機、広島上空に飛来し、特殊爆弾を投下、広島市は全滅した。死者およそ17万人の損害を受けた。」との第一報を送った。
火災が収まると、逃げ切れなかったものを手当てするため城内に臨時救護所が設けられたが、薬品不足など十分な医療行為が行えない事情から、そのまま死んでいく者も多かった。
翌8月7日、松村秀逸中国軍管区参謀長の指揮の下、防空作戦室前にテントを設け、軍の再建を図ることになった。
8月15日終戦となり、復員命令が下され、9月から11月にかけて各部隊は解散した。中国軍管区は11月末に一旦解散後、第一復員省中国復員監理部として再編された。
昭和三十二年~三十三年にかけて、天守が鉄筋コンクリート造で外観復元され、広島護国神社が本丸に移転再建し、中堀も埋め立てられ、内堀だけとなった。