勝尾城 (かつのおじょう) (三ケ山城・三上城・勝山城・筑紫城・山浦城) (国の史跡)
所在地 佐賀県鳥栖市河内町貝方2665 2017.5.8
勝尾城 (かつのおじょう) (三ケ山城・三上城・勝山城・筑紫城・山浦城) (国の史跡)
所在地 佐賀県鳥栖市河内町貝方2665 2017.5.8
登城ルート(緑は2郭/青は居館跡)
筑紫氏館跡
2郭北西石垣
2郭
2郭南東の堀切
主郭
主郭虎口付近石垣
勝尾城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高300m】
【感想】 背振山地の南にあり、標高498mの城山頂上に主郭、東側の少し下がった所に2郭を配置した山城である。石垣がよく残っている。
【案内】 県道17号線「池の内」交差点に「城山(勝尾城跡)3.5㎞」の案内標識がある。
西へ約1.7km行くと、安良川の橋の手前に「城山(勝尾城跡)1.9㎞」の案内標識がある。細い舗装道を西へ約1.9㎞行くと、館跡前に駐車場が用意されている[マップコード37 791 817*82](地図)。
2段になった「筑紫氏館跡」には神社が建てられ、東側に石積みの虎口がある。
神社の横より沢を登り、途中から沢コースと尾根コースに分かれる。尾根コースを登ると、6合目付近で林道からの道と合流する。狭い道を登ってゆくと、大手曲輪に出る。崩れた石垣や櫓台が残っている。
その上段に主郭と2郭の分岐がある。2郭の北西に石垣が残り南東に虎口がある。
戻って、主郭に登ると東西2段の曲輪から構成されている。虎口付近に石垣が残っている。
平成十八年(2006年)1月26日、「勝尾城筑紫氏遺跡」として国の史跡に指定された。
勝尾城の支城として葛籠城・高取城・鬼ヶ城・鏡城・若山砦がある。
【歴史】 『肥前国史』には、応永三十年(1423年)に渋川義俊が勝尾城を築いたとあるが、『歴代鎮西要略』では、延徳三年(1491年)に渋川義基が築いたとされる。
当城は九州の南北・東西の交通の要衝にあるため、長く渋川氏と少弐氏との争いの舞台となった。
やがて少弐氏は大内氏の傘下に入って助力を得、明応六年(1497年)には少弐氏一族の筑紫満門が勝尾城の城主となった。
その後、筑紫氏は、周辺の戦国大名と同盟あるいは敵対し、めまぐるしく活動する。
天正十四年(1586年)、筑紫広門が島津家久の攻撃を受けて落城した。翌、天正十五年に豊臣秀吉の九州征伐によって島津氏が八代に退去すると、筑紫広門は一ノ岳城を奪還し、さらに勝尾城をも奪い返した。これにより豊臣秀吉により広門は筑後国山下城主に転封され、勝尾城は廃城となった。