三星城 (みつぼしじょう) (妙見城) (市の史跡)
最寄地 岡山県美作市明見357−1 2019.4.13
三星城 (みつぼしじょう) (妙見城) (市の史跡)
最寄地 岡山県美作市明見357−1 2019.4.13
登城ルート
登り口・説明板
西の丸・土塁
本丸(居館)
二の丸・三角点
一の丸・奥に烽火台
三の丸
三星城 二の丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高160m】
【感想】 標高233.2mの三星山頂上に二の丸展望台があり、南山頂に一の丸烽火台がある。北尾根に西の丸(本丸から見て西)があり西側に土塁が残っている。
西の丸と谷を隔てて東に本丸の居館跡がある。
西の丸が土塁もあり一番見栄えがするが、二の丸は狭く展望台程度であり、北側眼下に美作市が展望できる。
【案内】 国道179号線より西に行った「美作中央病院」(表記番地)駐車場を利用させてもらった[マップコード233 633 181*05]。国道からの入口に「三星城址→」の標識と「三星城合戦妙見原古戦場跡一帯」の標柱が建てられている。
明見(妙見)三星稲荷神社鳥居があり、「三星城史」「三星城合戦」の説明板が建てられている。
鳥居から登った左側に明見三星稲荷神社、右側に本丸(居館)跡があり、その山側に忠魂碑、城主勝基の五輪塔墓が祀られている。
居館跡から左の道を登ってゆくと切岸の標柱があり、その先に西の丸がある。土塁が見られ、延々と二の丸手前まで続いている。西の丸から南へ登り三の丸との分岐を真っ直ぐ登り、険しい岩場を登ってゆくと二の丸があり、三角点が設置されている。そこから少し下って南東に行くと一の丸・烽火台がある。戻って二の丸登り口から右の山道を東に行き鞍部より南に登ると三の丸に着く。
美作市の指定史跡となっている。
【歴史】 応保年間(1161~63年)土豪渡辺氏の居館としてこの地に妙見城が誕生したと伝わる。
足利幕府の下、建武三年(1336年)地頭職として後藤康基が塩湯郷に入封し、暦応二年(1339年)後藤康基が妙見城に入り、以降後藤氏代々の居城となった。
永禄三年(1560年)後藤勝基が21歳の時宇喜多直家の息女千代を妻に迎え、天正はじめの頃には勝田・英田2郡を支配し、作東最強の豪族になった。
しかし、真木山長福寺一帯の寺領争いに端を発し、西方吉井川流域にも飛び火する。天正五年(1577年)から備前国との領界争いは遂に姻戚関係にありながら不和を生み、備前宇喜多と美作後藤の対決が避けられぬ日を招く。
天正七年(1579年)四月美作南部の諸城が落とされ、五月一・二日、直家の武将延原弾正景光率いる1万余と後藤勢6千余の合戦が城下一帯で行われ、三星城も攻められ落城し、五月三日勝基は自刃した(42歳)。