高瀬城 (たかせじょう) (尼子十旗)
最寄地 島根県出雲市斐川町神庭526 2015.5.16 2017.5.6
高瀬城 (たかせじょう) (尼子十旗)
最寄地 島根県出雲市斐川町神庭526 2015.5.16 2017.5.6
登城ルート
溜池・登山口
三の丸
駄置場
二の丸
堀・屈曲土橋
甲の丸・説明板
高瀬城 甲の丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高150m】
【感想】 経年劣化で明確な遺構は少ないが、甲丸下の階段状の曲輪に城跡の雰囲気が感じられる。
【案内・感想】 表記番地より山陰自動車道下を約600m南に行った高瀬溜池堤防右に登り口がある[マップコード134 433 166*13](地図)。
登り口より比高150mの高瀬山頂上へ1.4㎞の遊歩道が整備されている。
400mほど、なだらかな遊歩道行くと「三の丸・鉄砲立」があり、さらに300mほど行くと、「七曲り坂」となり、そこを越えると比高90mの小高瀬に「駄置場」がある。
右に100mほど行くと、小高瀬に「二の丸」がある(地図)。
戻って「駄置場」より左に行くと、細長い郭があり、さらに登ると、竪堀の始まりと思われる堀があり、屈曲した土橋がある。
その上段に2段の郭があり、最高所の標高319.4m高瀬山頂上に「甲(つめ)の丸」があり、説明板が建てられている。
【歴史】 暦応年間(1338~41年)に建部内蔵伊賀が築城した。その後、戦国時代に尼子氏の重臣で尼子十旗の第六旗に位置づけられる米原綱広が城主となった。
天文元年(1532年)、塩冶興久の乱に際し、高瀬城主米原綱広が塩冶興久を救い出そうとしたと伝わる。
永禄十二年(1569年)、尼子氏残党の挙兵に加わった米原綱寛が拠った。元亀元年(1570年)、布部山の戦いの結果尼子勢は総崩れとなり、高瀬城は孤立、鳶ヶ巣城の毛利輝元・元春、平田城の岡又十郎等との間に、城下で激しい戦いが繰り広げられた。
元亀二年(1571年)三月十九日、毛利輝元に率いられた毛利勢に攻められ落城した。城主綱寛は尼子勝久の立て籠もる真山城(松江市法吉町)に逃れ、再び戦ったと伝えられている。
一時吉川元春が入城した。なお、吉川元春は父毛利元就の訃報をこの城で受け取っている。そして天下平定の後、再び建部氏の居城になったという。