四王司山城 (しおうじやまじょう) (四王寺山城)
所在地 山口県下関市田倉 2019.5.10
四王司山城 (しおうじやまじょう) (四王寺山城)
所在地 山口県下関市田倉 2019.5.10
登城ルート
登り口・標柱
鳥居・説明板
説明板
四王司神社
厚東南殿(武村)の墓
四王司山城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高310m】
【感想】 下関市田倉の標高391.8mの四王司山に築かれている。
堀切などはほとんど見られないが、かなりの広さの平坦地があり、四王司神社の前に厚東南殿(武村)の墓がある。
神社背後に広い郭があり、三角点が建てられ、石積も数か所残っている。南側に毘沙門堂跡がある。
緩やかな登山道が整備され登りやすく、当日も女性のハイキング客が多く訪れていた。
【案内】 県道247号線の信号交差点より北に約1.1km行った勝山御殿の駐車場が利用できる[マップコード557 671 298*57](地図)。
勝山御殿の北側より約1.6kmの遊歩道が頂上まで設けられている。
頂上680m手前に展望台があり、鉄塔が建っている。頂上には四王司神社が祀られている。
【歴史】 清和天皇の貞観九年(867年)長門国司が四王院を建立し四天王像を祀ったと伝わる。
築城時期は定かではないが、南北朝時代に14代厚東武実(ことうたけざね)によって築かれたと云われる。このころ、大内、厚東両氏の抗争が繰り返された。
正平三年(1349年)厚東武実の子・15代厚東武村が守護となり、守護代として富永武通を四王司山城に入れ、後に自ら四王司山城に入った。
正平十三年(1359年)大内弘世は陶弘綱に兵を与えて四王司山城を攻め半年に及ぶ攻防が行われ、ついに厚東武村は討死して落城した。
正平十三年、弘世は長門守護職にも任じられ[、大内氏が防長両国の守護となった。
翌、正平十四年(1360年)、九州に逃れていた17代厚東義武は四王寺城に拠って挙兵したが、十二月二十六日大内弘世に攻められて敗れ、再度九州に逃れた。
その後の城主として、富永又三郎武信、大内弘茂、行方備中守秀具の名がある。