栂牟礼城 (とがむれじょう)
最寄地 大分県佐伯市弥生大字小田811-2 2016.5.16
栂牟礼城 (とがむれじょう)
最寄地 大分県佐伯市弥生大字小田811-2 2016.5.16
登城ルート(緑線は車道)
山村広場駐車場
栂牟礼城へ・展望台
1番目の二重堀切
2番目の堀切
栂牟礼城二の丸跡
本丸手前
本丸跡・城趾碑
栂牟礼城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 国道10号線「番匠」交差点の西50mより右折し、500m行った表記番地のT字路を右折し、延々1.9㎞登って行くと山村広場駐車場が用意されている[マップコード 186 161 387*34 ]。
駐車場より西に約100m行くと、小田山城 がある。
駐車場より東に登ると展望台のある休憩施設の山頂(地図)に出る。その東より、しばらく緩やかな下りの尾根道となり二重堀切がある。
その先は急斜面となり、ロープが備えてある。登ってゆくと200m手前の平坦地に出、直角に左(北)に曲がり、二の丸跡に連なる。帰りの降り口に目印をつけることを薦めたい。ちなみに自分は適当に下ったら迷い、元に引き返したのである。
緩やかな平坦地を過ぎると、虎口となり、標高223.8mの栂牟礼山頂上に本丸跡があり宮、「史跡 栂牟礼城址」の石碑が建てられている。東西20m南北40mほどの広さがあり、東側に祠が多数安置されて、「栂城訪古歌」の看板が建てられている。
【歴史】 栂牟礼山は標高223.8m、麓との比高差210mで、大永元年(1521年)大友氏配下の佐伯惟治が築城した。
その後、大永七年(1527年)に大友義鑑(よしあき・宗麟の父)が謀反の企てありとして臼杵長景に命じ、2万余の軍勢を引き連れて攻囲、攻めるが天然の堅固な要害で容易に落城させることができなかった。
そのため長景は使者を遣わして和議を結び、惟治は城を明渡し日向に落ち延びた。しかし途中、長景と通じていた土民に襲われ惟治は自害し、惟治の子も自害した。
天正六年(1578年)大友氏は耳川の合戦で島津軍に大敗し、佐伯惟教、惟真、鎮忠などが討死し、家督は惟真の子・惟定が継いだ。
天正十四年(1586年)佐伯惟定は、豊後に侵攻してきた島津軍を堅田合戦で退けると、朝日嶽城の守将で島津方に寝返っていた柴田紹安の居城・星河城を攻め落とした。翌年には島津氏方の土持親信が守る朝日嶽城を奪還した。
文禄の役の後、主家・大友義統が改易されると、佐伯惟定もまた所領を失いこの地を去った。