名護屋城 (なごやじょう) (名護屋御旅館) (国の特別史跡・日本100名城87)
最寄地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931 2011.10.5
名護屋城 (なごやじょう) (名護屋御旅館) (国の特別史跡・日本100名城87)
最寄地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931 2011.10.5
大手門跡
本丸・城址碑・天守台(奥)
天守台跡
青木月斗の句碑
二の丸跡・土塁
竹ノ丸陣趾
名護屋城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道204号線「大手門」交差点より北に行くと「佐賀県立名護屋城博物館」(表記番地)駐車場が用意されている[マップコード967 104 053*15]。
大手門入口に城跡碑が建てられ、登ってゆくと三の丸、一段高く本丸、北西に二の丸と配置され、比高20m余の頂上の本丸に「名護屋城址」の石碑が建てられている。青木月斗の句碑「太閤が睨みし海の霞かな」があり、一段高い天守台跡が残る。天守台からは片島、呼子大橋や呼子港が眼下に広がり玄界灘が望める。
二の丸には土塁が良く保存されている。
麓には主な陣跡として南より「羽柴秀俊陣跡」「堀秀治陣跡」「加藤清正陣跡」「福島正則陣跡」「上杉景勝陣跡」「九鬼守隆陣跡」そして最北の海岸近くに「島津義弘陣跡」がある。名護屋城に一番近い北東に「徳川家康陣跡(竹ノ丸陣趾)」(なごや保育園(唐津市鎮西町名護屋694−1)の北)がある(地図) 。
大正十五年(1926年)11月4日、「名護屋城跡並陣跡」として国の史跡に指定され、昭和三十年(1955年)8月22日、国の特別史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(87番)に選定された。
【歴史】 松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城として、垣添城があった。
豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。
名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90m)を中心に17万㎡にわたり築かれた平山城である。天正十九年(1591年)八月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。
十月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取り掛かった。
『松浦古事記』によれば、20万5570余の兵が高麗へ渡り、名護屋在陣は10万2415兵で、総計30万7985兵で陣立てされた。
五重天守や御殿が建てられ、周囲約3㎞内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口十万人を超えるほど繁栄した。
文禄の役は文禄元年(1592年)4月に始まって文禄三年(1593年)7月に休戦した。
また、慶長の役は慶長二年(1597年)1月講和交渉決裂によって始まり、慶長三年八月十八日(1598年9月18日)の秀吉の死を受け、同年十二月日本軍の撤退をもって終結した。
その後、大陸進攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる。
石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分的に残る。
歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。