物集女城 (もずめじょう)
最寄地 京都府向日市物集女町中条9 2019.4.11
物集女城 (もずめじょう)
最寄地 京都府向日市物集女町中条9 2019.4.11
現地説明板
主郭・土塁
土塁
水堀
物集女城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 勝竜寺城の北約5kmの物集女町の微高地にあり、土塁が北側と東側に見られる。また水堀が主郭の東側に残っている。
主郭は個人所有の畑となっており、立ち入りは制限されている。西側は住宅が建ち並び改変されており、遺構は見られない。
【案内】 県道67号線に面した4階建てのアパート前にある有料駐車場が利用できる[マップコード7 458 147*31]。
周囲の道路は狭く、住宅地で駐車スペースは少なく、アパートの西側フエンスから水堀を見ることが出来る。
南側の道を西に200mほど歩くと「物集女公民館」(物集女町中条26)があり、玄関先に簡単な模型と縄張り図などが掲示されている。
約50m北を右に行くと突き当りに主郭があり、説明板が建てられている。
【歴史】 中世、この一帯を本拠としていた国人(土豪)物集女氏の居城跡とされる。
長享元年(1487年)上久世庄公文に「郷々出銭」を申し入れた「惣国」の代表者6名の中に物集女四郎右衛門尉光重の署名が見られる。
物集女氏は室町幕府の西岡被官衆の一人で、応仁の乱後、惣国の結集に参加したと考えられる。
織田信長が山城一帯を鎮圧したのち、天正元年(1573年)細川藤孝は桂川西岸一帯を与えられ、国人らの領土を安堵した。
安堵を受けた国人らは勝竜寺城主藤孝の元に御礼に参上したが物集女忠重入道宗入は、代々の自分の領地であり参上する謂れはないと拒絶した為、勝竜寺で謀殺され、以後物集女氏は衰退した。