法勝寺城 (ほっしょうじじょう) (尾崎城) (町の史跡)
最寄地 鳥取県西伯郡南部町630-1 2017.5.6
法勝寺城 (ほっしょうじじょう) (尾崎城) (町の史跡)
最寄地 鳥取県西伯郡南部町630-1 2017.5.6
登城ルート
城址碑・毛利本紹の墓
堀切
腰郭
北主郭虎口・切岸
北山頂の主郭
法勝寺城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 法勝寺川左岸の比高約40mの山頂にある。城山公園として整備保存され、空堀、堀切が残り、急峻な切岸が特徴的であり、北曲輪群主郭には低い土塁が残っている。
【案内】 国道180号線「城山公園入口」交差点の南50mより法勝寺川を渡って、右折法勝寺中学校(表記番地)に向かう道路右に駐車スペースがある。毛利本紹の墓があり城址碑、説明板が建てられ、登り口がある[マップコード109 024 074*05](地図)。
坂道を登ると道路となった空堀、堀切があり、左に登るとに腰郭があり、切岸の上に北曲輪群主郭がある。平成十六年(2004年)10月1日、南部町の史跡に指定された。
【歴史】 築城年代は不明だが、『山名系図』によれば古くは山名満幸が法勝寺周辺を知行していたという事から、山名氏による築城と考えられる。
『山名政之書状』によれば、文明十三年(1481年)九月十一日、伯耆守護・山名政之が対立中であった叔父の山名元之の勢力が籠っていた法勝寺城などを攻撃するために出発したとある。
その後の消息は不明だが、毛利氏の築城伝承が存在することから山名氏衰退後は放棄または著しく荒廃した可能性が高い。
永禄七年(1564年)、毛利氏によって修復されると、吉川元春に従属していた備中国の有力国人・三村家親が城主となった。家親は八橋城を攻略するなど活躍した。関ヶ原の戦い後、伯耆一国の領主として中村一忠が入封すると廃城となった。
なお、麓には山中幸盛に攻められ自刃した伝えられる城主・毛利本紹の墓がある。