高鍋城 (たかなべじょう) (舞鶴城・財部城) (たからべじょう)
所在地 宮崎県児湯郡高鍋町上江1345 2016.5.15
高鍋城 (たかなべじょう) (舞鶴城・財部城) (たからべじょう)
所在地 宮崎県児湯郡高鍋町上江1345 2016.5.15
舞鶴公園
舞鶴神社
二の丸跡
本丸跡・奥御殿跡
詰の丸石垣
詰の丸・櫓台
高鍋城 詰の丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【案内・感想】 県道24号線「高鍋町黒谷」交差点より、南へ約400m行くと右に「舞鶴公園」があり、「歴史総合資料館」前に駐車場が用意されている[マップコード219 135 169*00]。
舞鶴神社(表記番地)や護国神社が建てられている。又、本丸政庁跡・奥御殿跡があり、その上段に公園となっている曲輪がある。
北側に石垣のある「詰の丸」跡がある。詰の丸は2段の郭から成り、北の最高所には櫓台が残っている。
【歴史】 高鍋城はかつて財部(たからべ)城と呼ばれ、平安時代末期に宇佐八幡宮の神官の出で、日向の豪族となった土持氏によって築かれたといわれる古城である。
土持氏は室町時代までこの地に勢力を張ったが、戦国時代になると、日向に勢力を伸ばしてきた伊東氏の所領となった。
長禄元年(1457年)七月に、都於郡城主の伊東祐堯が大軍で城を攻撃した。土持景綱の軍は敗退し、財部城を始めとした高城、日知屋城など10の城が伊東氏に帰属した。財部城は落合民部少輔(名も含め代々世襲)が治めることとなった。
天正三年(1575年)、この当時の落合民部少輔の子・落合丹後守ら若衆36人が、木崎原合戦で没した伊東祐安および、その嫡男・伊東祐次の跡目問題で、伊藤義祐の寵臣・伊東帰雲斎の専横が原因で反乱に至り(反乱時は34人)、その果てに殺される事件が発生した。
この事件が元で、落合民部少輔は帰雲斎を深く恨むようになり、天正五年(1577年)の伊東義祐の「豊後落ち」の際に落合は島津氏に寝返り、財部城は島津氏の城に帰し川上忠智が城主となった。
天正十五年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐以後、筑前秋月城(古処山城)主であった秋月種実が移封された。秋月氏は当初、櫛間城(宮崎県串間市)を居城としていたが、慶長九年(1604年)に次代・秋月種長により財部城に居城を移し、代々秋月氏が居城し幕末に至っている。
慶長十二年(1607年)に大幅な改修工事がなされ、このときに三階櫓などを築いている。
さらに、秋月種信のときに寛文九年(1669年)から延宝六年(1678年)にかけて堀、大手門などの城門、本丸御殿などを建設した。その間の延宝元年(1673年)に、「財部城」から「高鍋城」に名を改めた。
明治四年(1871年)本丸に高鍋県の県庁が置かれ、同年十一月に美々津県に合併し出張所として使用されたが、明治六年(1873年)に宮崎県へ統合された後、全ての建物は払い下げられ撤去された。