津和野城 (つわのじょう) (三本松城) (国の史跡・日本100名城66)
最寄地 島根県鹿足郡津和野町後田イ477−10 2013.10.13
津和野城 (つわのじょう) (三本松城) (国の史跡・日本100名城66)
最寄地 島根県鹿足郡津和野町後田イ477−10 2013.10.13
登城ルート(緑は出丸)
北出丸石垣
中世堀切
天守台石垣・説明板
二の丸石垣
三十間台
人質曲輪石垣・三の丸跡
三の丸跡・人質曲輪石垣・三十間台(奥)
津和野城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★ 比高190m】
【案内・感想】 津和野町の街並みの西、標高347.5m比高約190mの山頂に津和野城跡がある。
「津和野伝統文化館」(表記番地)の西よりリフト(昭和四十六年開業)が運行している(駐車場有)[マップコード513 152 192*65]。
山頂駅から南にゆくと北の「出丸跡」の石垣曲輪がある(地図)。途中、吉見氏時代の堀切がある。
曲輪はTの字型に配置されている。堀切の南に「東門跡」の虎口石垣が良く残り、2段の石垣の上に海老櫓、馬立の在った曲輪がある。一段高く「三十間台(本丸)」の曲輪があり、その西に天守台、二の丸が配置されている。本丸からは津和野の町が見下ろせる。
その南に一段下がった曲輪が三の丸、南出丸で南門の石垣が遺っている(地図)。
登山の場合は津和野伝統工芸舎(津和野町後田ハ8)の北に登山道がある(地図)。
昭和十七年(1942年)10月14日、国の史跡に指定された。平成十九年(2007年)7月26日には、史跡の追加指定が行われて指定範囲が拡大した。平成十八年(2006)4月6日、日本100名城(66番)に選定された。
【歴史】 元寇の翌年の弘安五年(1282年)沿岸防備のため西石見の地頭として吉見頼行が赴任し、永仁三年(1295年)より三本松城(津和野城の旧名)の築城を開始し、正中元年(1324年)完成した。
以後、14代にわたり吉見氏が居城した。吉見氏は戦国時代初め、大内氏に属したが、戦国末期には最終的に毛利氏に属した。
この間、11代当主正頼は天文二十三年(1554年)に大内氏を滅ぼした陶晴賢(すえはるかた)と百日以上に及ぶ籠城戦で、毛利軍の援護を受け、陶軍を撃退した。
これ以後、毛利氏に属した。14代当主吉見広長は慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて毛利配下として大阪城を守ったが、総大将毛利輝元の西軍が敗れ、毛利氏は防長2国に移され、吉見氏も津和野を去り、毛利氏とともに萩に移住した。
代わって東軍に属した坂崎直盛が3万石(後に加増され4万3468石)で入城し、城の大改修を行った。
大手の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や織部丸を築いた。この時、二の丸に天守を築いた。
直盛は元和二年(1616年)に千姫事件で自害(または家臣に殺されたとも)し、坂崎氏は改易となった。
元和三年(1617年)因幡国鹿野藩(鹿野城)より亀井政矩が4万3千石で入城した。以後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。
藩庁は急峻な山城を避け東麓の「西周旧居」近くに置かれた。貞享三年(1686年)城は落雷に遭い火災が発生した。この際に天守も焼失し、以後再建されることはなかった。
明治四年(1871年)廃藩置県により廃城となり、翌年、山上の城は解体された。