中津城 (なかつじょう) (扇城) (県の史跡)
所在地 大分県中津市二ノ丁1273−2 2011.10.1
中津城 (なかつじょう) (扇城) (県の史跡)
所在地 大分県中津市二ノ丁1273−2 2011.10.1
堀・石垣
五重模擬天守・石垣
五重模擬天守・二重櫓
五重模擬天守・二重櫓
中津川
中津城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内】 南側の堀を入った所に駐車場が用意され[マップコード145 667 256*63]、本丸に黒田官兵衛資料館(表記番地)、中津神社、城井神社が建てられている。
日本三大水城(高松・今治・中津城)の一つである。周防灘にそそぐ山国川より分かれた中津川の南岸に築かれた平城である。
本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体は、ほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。
本丸の東から北にかけて濠・石垣が良好に残り、北東の隅に五重模擬天守(昭和三九年RC造)が建てられ中津城(奥平家歴史資料館)として一般公開(有料400円)されている。天守と土塀に連なった南に望楼型の二重櫓がある。
櫓の棟数は22棟、門は8棟。総構には、6ヶ所の虎口が開けられていた。天守ははっきりしないが、江戸時代後期の「中津城下図」には中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれている。県の史跡に指定されている。
東約350mには「福沢諭吉旧居記念館」がある。
【歴史】 天正十五年(1587年)黒田孝高(如水)が、豊臣秀吉より豊前国六郡12万3千石を与えられ、当初、馬ヶ岳城に入城した。
翌年、孝高(如水)は、領地の中心である山国川河口に中津城の築城を始めた。
同年熊本の一揆征伐で黒田孝高(如水)が中津城を留守の間に、嫡男の長政は、敵対していた城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城内に引き入れて、惨殺した。
慶長五年(1600年)黒田家は関ヶ原の戦いで、徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。
長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城が中断された。
同年 細川忠興が豊前国と豊後国二郡39万石で入封し、大修築を再開した。慶長七年(1602年)忠興は小倉城の築城に着手し、小倉城を主城、居城とした。
修築中の中津城の城主は細川興秋になった。元和七年(1621年)扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成した。
寛永九年(1632年)細川家の熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封し事実上中津藩が成立した。
享保二年(1717年)宮津藩(宮津城)より奥平奥平昌成が10万石で入封し、明治維新まで奥平家の居城となった。
安政三年(1856)海防強化のため、海から城への入口に当たる山国川河口(現在は支流の中津川河口)の三百間突堤に砲台を建設した。
文久三年(1863年)本丸に松の御殿を新築した。この御殿は小倉県、福岡県、大分県の中津支庁舎として転用された。
明治二年(1869年)版籍奉還により府藩県三治政下における中津藩の藩庁が置かれ、翌年、中津藩士福沢諭吉の進言により御殿を残し、その他建造物は破却された。
明治四年(1871年)廃藩置県により中津県の県庁が置かれ、同年、小倉県に併合され中津支庁が置かれた。明治十年(1877年)西南戦争の際、西郷隆盛の挙兵に呼応した増田宋太郎率いる中津隊の襲撃により中津支庁舎の御殿が焼失した。
平成二十二年(2010年)10月4日、 中津勧業が模擬天守等の建物を埼玉県の企業千雅に売却することを決定。
平成二十三年(2011年)5月、千雅が管理運営を一般社団法人中津城に移管して現在に至る。