名島城 (なじまじょう)
所在地 福岡県福岡市東区名島1‐15 2014.5.8 2020.9.26
名島城 (なじまじょう)
所在地 福岡県福岡市東区名島1‐15 2014.5.8 2020.9.26
大手門跡石垣
名島城址公園
名島城址公園・「名島城跡」碑
隅櫓跡
名島神社
宗生寺の移築門
名島城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 博多湾に突き出した標高約50mの丘陵に築かれた名島城は三方を海に囲まれ、本丸、二の丸、三の丸、南丸で構成され、安芸国三原城と同様、水軍の根拠地としての性格の強い城であった。
現在はほとんどが市街地と化しており、本丸が名島城址公園(表記番地)として開放(夜間は施錠)されており、「名島城跡」の石碑、案内板が建てられている。隅櫓跡があり、東側の大手門跡に石垣が残る。
南に名島神社があり、石段を下った鳥居横に駐車スペースがある[マップコード13 500 897*31](地図)。海岸に「帆柱石」があり、博多湾が望める。
宗像市の宗生寺(宗像市大穂937)に搦手門が移築されている。
【歴史】 豊前国の戦国大名大友氏の庶流であった立花氏当主・立花鑑載(あきとし)が立花山城の出城として築城したことが始まりとされる。
天正十五年(1587年)に島津氏を降伏させ、九州平定を果たした豊臣秀吉は、筑前国や近隣諸国を毛利氏の重臣・小早川隆景に与えた。
小早川隆景は城地の選定にあたり、海に近く水軍の本拠とできる城の築城を計画し、この立花山城の出城であった名島城を大改修して居城とした。
後に小早川隆景は、養子とした小早川秀秋に家督を譲り、この名島城から退去して三原城に戻った。秀秋は小早川家の新たな当主として名島城に入り、城主となった。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、小早川秀秋は岡山51万石に加増転封され、この筑前国には豊前国中津から、慶長八年(1603年)黒田長政が入った。
長政は立地的に城下町の整備の余裕が無い名島城を廃城とし、近隣の福崎に新城の築城を決定した。そのため名島城の建物は建材として、石垣は石材として持ち出され福岡城の資材となった。
その内、崇福寺(博多区千代4丁目7−79)の唐門、福岡城に名島門、宗生寺(宗像市大穂937)山門に搦め手門が移築された。