法華津本城 (ほけつほんじょう) (市の史跡)
最寄地 愛媛県宇和島市吉田町法花津6−199 2021.3.8
法華津本城 (ほけつほんじょう) (市の史跡)
最寄地 愛媛県宇和島市吉田町法花津6−199 2021.3.8
登城ルート
日吉神社参道
日吉神社
南の土塁(左側崩落個所の擁壁)
南より土塁・放送塔
北の段
法華津本城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高30m】
【感想】 吉田町法花津の標高約40mの南北に細長い独立丘陵に築かれており、北の最高所には貯水槽が設置されている。
遺構は少なく、南に鈍っているが段々になった民有地の蜜柑畑があり、南側に土塁と郭が残っている。
蜜柑山で収穫期は避けた方が良く、お会いしたら訪城の旨を告げるとよい。東側の擁壁個所は2018年7月の西日本豪雨災害による崩落の爪痕だ。
【案内】 国道378号線横の日吉神社(表記番地)参道脇に駐車できる[マップコード176 512 495*86]。
日吉神社東から下って登ると蜜柑山に着き、南に行くと土塁があり放送塔が建てられている。
その南側に雑草の茂る郭がある。一方北に階段状の平坦地があり北端の最高所には貯水槽が設置されている。
昭和四十九年(1974年)3月1日、当時の吉田町により指定史跡となった。
【歴史】 南北朝時代に築かれたともいわれ、法華津氏(清家氏)が犬尾城から移した同氏の本城であり、当城を囲むように存在した6つの支城(新城、鍋蔵城、今城、高森城、福之森城、吉岡山城)があり、西園寺氏を守る重要拠点となった。
天文年間(1532~55年)から永禄年間(1558~70年)にかけて豊後国大友氏の水軍により侵攻を受け、法華津範延らは宇和海の水軍を率いてこれを迎撃した。また、土佐一条氏を助けて長宗我部氏と対峙した時期もあった。
天正十三年(1585年)四国の役において、法華津秋延は降伏し、その後小早川隆景の下で九州征伐に従軍した。その後、筑紫国に去ったともいう。