頭崎城 (かしらざきじょう) (県の史跡)
最寄地 広島県東広島市高屋町貞重482 2016.5.9
頭崎城 (かしらざきじょう) (県の史跡)
最寄地 広島県東広島市高屋町貞重482 2016.5.9
登城ルート
林道入口
三の丸跡・説明板・二の丸切岸
太鼓の段
二の丸跡
甲の丸虎口横石垣
甲の丸(本丸)
頭崎城 甲の丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高140m】
【案内・感想】 県道348号線(道は狭い)に面した表記番地より北に約550m行くと、右に林道入口がある[マップコード168 232 774*62](地図)。
東に約1.3km行くと未舗装の駐車場がある[マップコード168 234 210*81]。急坂路とカーブが多く、無理なようであれば、途中の路肩に駐車し徒歩が良い。
「大将陣」の東に駐車場があり、堀道を登ってゆき直進すると「煙硝の段」がある。巨石のある明治神宮がある。
戻って、西に行くと、大きな岩があり、三の丸に至る。説明板が建てられ、神社がある。西に少し登ると「太鼓の段」がある。
戻って神社手前より登ると、二の丸跡があり、石垣の残る虎口を登ると、「甲(つめ)の丸」がある。甲の丸は広く、三角点がある。城域は東西900m南北600mに及び県内では毛利氏の郡山城に次ぐ広さがあり、平賀氏の支配領域のほぼ中心にあった。
昭和四十四年(1969年)4月28日、広島県の史跡に指定された。
【歴史】 戦国時代後半、この安芸国西条の地にも大内氏と尼子氏の勢力が伸び、両者の争いが激化していった。
大永三年(1523年)六月、大内方の鏡山城が落城した。平賀氏当主平賀弘保は居城であった白山城(しろやまじょう)の防備に不安を感じ、近隣の頭崎山に築城し、嫡男の平賀興貞を城主とした。
ところが、興貞は父の意向を無視して尼子氏に属し、大内方に味方した弘保と孫の隆宗・広相で争いを繰り広げることとなった。
天文九年(1540年)、大内義隆の命を受けた毛利元就がこの高屋保へと進出、頭崎城を攻略した。敗れた興貞は出家して、平賀氏の家督は興貞の嫡子である隆宗が相続した。
平賀隆宗は大内方として活躍するが、天文十八年(1549年)に備後国神辺城を攻撃中に死去した。祖父の平賀弘保は家督を平賀広相(ひろすけ)に継がせようと考えたが、大内義隆の策謀によって平賀氏の家督は小早川氏庶流の義隆の寵童が改名して相続し、平賀隆保と名乗った。
天文二十年(1551年)に大寧寺の変で大内義隆が陶隆房(陶晴賢)によって殺害されると、陶方に味方していた毛利元就は、大内方であった頭崎城の平賀隆保を攻めて落城させ、家督を平賀広相に継がせた。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封となると、平賀氏もそれに随行し、頭崎城も廃城となった。『ウイキペデイア』より。