隈庄城 (くまのしょうじょう) (隈牟田城)
最寄地 熊本県熊本市南区城南町宮地1009 2015.5.6
隈庄城 (くまのしょうじょう) (隈牟田城)
最寄地 熊本県熊本市南区城南町宮地1009 2015.5.6
登城ルート(緑は二の丸)
北側切岸・入口
城の鼻公園・慰霊之塔
説明板
由緒碑
本丸
南側・二の丸
隈庄城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 市立隈庄幼稚園(表記番地)の南の高台が隈庄城跡で、本丸は「城の鼻公園」となっている[マップコード29 132 797*65]。
少し上った所に「隈無田碑」が建てられ、公園中央に「慰霊之塔」、北側に公園由緒碑と説明板が建てられている。
二の丸跡とされる南側は墓地となっている。三の丸は東側道路の南東の「熊本市役所城南総合支所」の台地とされている。
【歴史】 鎌倉時代、有力な雑任国司の肥宿称・佐伯朝臣らの根拠地となり、南北朝時代から戦国時代にかけて群雄の重要な戦略拠点となった。
延文四年(1359年)には大友氏が当城を攻撃し、南北朝時代末期には菊池武朝と敵対していた記録が残る。
十五世紀には相良為続の支配下に一時入り、天文八年(1539年)には隈庄城主として相良氏に協力した目方氏に相良側が番衆を送っている。
天文十二年(1543年)に当城は落城し、目方氏は肥後国北部に亡命した。以後は甲斐氏が隈庄城に入り、永禄八年(1565年)には阿蘇氏からの離反を目論んだ城主・甲斐守昌が義父の御船城主甲斐親直に攻められ、敗れた。
天正十年(1582年)に島津氏が八代城(古麓城)まで進出すると堅志田城や御船城とともに主な攻城対象となり、天正十三年(1585年)には当城で激しい攻城戦が行なわれた。
落城はしなかったものの他城の降伏により開城し、伊集院忠棟が入城した。豊臣秀吉の九州征伐の際、宮原景種が肥後国人と戦って敗死した。
その後は岡本太郎左衛門が城代となり、小西行長領になると小西主殿介が在城した。
この城に天正十五年(1587年)四月十八日には、薩摩の島津氏追討へ向かう豊臣秀吉が宿泊した。
慶長五年(1600年)、小西氏が滅びると廃城となった。