坂本城 (さかもとじょう)
最寄地 滋賀県大津市下阪本3丁目6−14 2013.9.7 2014.9.2
坂本城 (さかもとじょう)
最寄地 滋賀県大津市下阪本3丁目6−14 2013.9.7 2014.9.2
二の丸の城址碑
明智光秀像
坂本城址碑
西教寺移築城門
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 比叡山の麓、琵琶湖西岸の「東南寺」(表記番地)の西に「坂本城址」の石碑がある(地図:二の丸跡とされる)。
現在、城郭の大半は宅地化され、推定地の中央には国道161号線が貫通している。
国道161号線の東にある都市公園湖岸緑地北大津地区に「坂本城址碑」や「明智光秀像」が建てられ、説明看板がある[マップコード148 780 591*44](地図)。
本丸跡は㈱キーエンス研究所(下阪本3丁目2−20)の敷地辺りと推定されている。
西教寺(大津市坂本5‐13)総門(地図)は明智光秀によって移築されたと云われる城門である。
【歴史】 元亀二年(1571年)九月比叡山焼き討ちの後、織田信長は宇佐山城の城主であった明智光秀に対して、京と比叡山の抑えとして滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。
宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記している。
その後坂本城は近江国における反織田信長に対する重要な軍事施設として使用された。光秀は黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中にすると、天正八年(1580年)亀山城の城主となったが、坂本城もそのまま城主となっていた。
天正十年(1582年)六月二日、明智光秀は毛利・中国攻めには向かわず本能寺の織田信長軍を急襲し、織田信長を炎の中に追い込み、次いで二条城を攻城し織田信忠を自害させた(本能寺の変)。
しかし、同年六月十三日の山崎の戦いで敗れた明智光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指す途上、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去した。
一方安土城の城主となっていた明智秀満は、山崎の戦いで敗戦を知り坂本城に移ってきたが、羽柴秀吉軍が城を囲む中、明智秀満自身が天守に火を放ち光秀の妻子もろとも自刃し、落城した。
その後、羽柴秀吉が丹羽長秀に再建を命じ城主となった。その後、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦い(秀吉と勝家の戦い)の軍事上の基地として使用され、後に杉原家次そして浅野長政が城主となった。
しかし天正十四年(1586年)秀吉の命により浅野長政が大津城を築城し居城を移したことにより廃城になった。