備中松山城 (びっちゅうまつやまじょう) (高梁城) (国の史跡・日本100名城68)
所在地 岡山県高梁市内山下1 2011.10.7
備中松山城 (びっちゅうまつやまじょう) (高梁城) (国の史跡・日本100名城68)
所在地 岡山県高梁市内山下1 2011.10.7
登城ルート(緑線は車道)
上太鼓丸石垣
大手石垣
足軽番所跡
二重二階天守
本丸南御門
二重櫓
備中松山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★ 比高100m】
【案内・感想】 標高430mの大松山山頂にあり、日本三大山城(岩村城、高取城、備中松山城)一つで、現存十二天守の一つである。巨大な岩壁が防御となり戦国の激しい戦いに耐えた難攻不落の山城である。
山頂近くまで車で行け、駐車場が用意されている[マップコード236 209 267*54](地図)。
そこ から比高50m、距離250mほど北に登ると、「上太鼓丸」の石垣があり、さらに比高50m距離150m程行くと「大手門」の石垣があり、そこからの階段状の曲輪の石垣は壮麗である。
三の丸(地図)は広く「足軽番所跡」「上番所」の石碑が建てられており、南西に「三の平櫓東土塀」がある。厩曲輪の西を登ると二の櫓門の二の丸である。更に一段く高石垣上に本丸がある。
駐車場より比高約120mの本丸には「本丸南御門」や土塀が復元され「三の平櫓東土塀」が国の重要文化財に指定されている。そして天守台に唐破風のある天守が現存する。天守の北に二重櫓がある。望楼型二重二階天守(表記番地)は有料(大人300円、小中学生150円)で内部公開され南西に高梁市の家並が展望できる。石垣は野面積となっている。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(68番)に選定された。
【保存】 昭和初期に山上の建物が修復され、昭和十六年(1941年)5月8日、天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国宝保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の「重要文化財」に相当)の指定を受けた。昭和三十一年(1956年)11月7日、国の史跡に指定された。
平成六年(1994年)より本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元された。
【歴史】 延応二年(1240年)に地頭・秋葉三郎重信が臥牛山の大松山に砦を築いた。
元弘年間(1331~34年)秋葉氏に代わり、備後の三好氏の一族・高橋宗康が小松山まで城を拡張した。
その後、高氏・上野氏と替り、天文二年(1533年)庄為資が城主となった。
尼子氏の支配を経て、永禄四年(1561年)には毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現川上郡成羽町)城主・三村家親が尼子氏の加番・吉田佐京亮を討ち備中松山城主となった。
元亀三年(1572年)将軍足利義昭の仲裁で毛利氏・宇喜多氏の和睦が成立すると、三村元親は織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻した。
天正二年(1574年)冬から翌、天正三年夏にかけて、毛利・宇喜多連合軍と三村勢の間で備中松山城をはじめとする備中諸城をめぐって激戦が繰り広げられた(備中兵乱)。三村元親は敗れ自害した。
この頃、本城は古松山に移り臥牛山一帯は大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸などの出城・出丸が築かれ、全山が一大要塞になっていたことが記録から伺える。又居館である御根小屋も現在の場所(臥牛山南西麓、現高梁高等学校敷地)に設けられていた。
備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。
慶長四年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、徳川家康は備中松山城に国奉行として小堀正次・政一父子を置いた。
政一は国替となり元和三年(1617年)、池田長幸が入城し、6万3千石で立藩するが、寛永十八年(1641年)、二代永常が嗣子なく没したため同家は廃絶した。
備後福山藩主の水野勝茂家臣が城番となり、 翌年水谷(みずのや)勝隆が5万石で入封した。
二代勝宗は天和元年(1681年) から 天和三年にかけて天守建造など大修築を行い、城は現在の姿となった。
しかし、三代勝美は嗣子なく元禄六年(1693年)十月に死去した。その養子となった勝晴はわずか一か月後の同年十一月に十三歳で早世し、水谷家は断絶した。
水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となった。
元禄八年(1695年)、安藤重博が6万5千石で入封するが、正徳元年(1711年)に転封となった。同年、石川総慶が6万石で入封した。
延享元年(1744年)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治の廃藩置県まで板倉氏が八代続いた。
慶応四年一月十八日(1868年2月11日)戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者・山田方谷の決断で無血開城した。
明治六年(1873年)廃城令が公布され、御根小屋は取り壊された。また、山上の建物は放置され、次第に荒廃していった。