高松城 (たかまつじょう) (備中高松城) (国の史跡)
所在地 岡山県岡山市北区高松684 2014.9.2
高松城 (たかまつじょう) (備中高松城) (国の史跡)
所在地 岡山県岡山市北区高松684 2014.9.2
水攻築堤
三の丸跡
二の丸跡
堀・本丸跡
本丸跡・清水宗治城跡碑
清水宗治公自刃之阯の碑
高松城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 梯郭式平城で、石垣は築かれず土塁によって築城されていた。城の周囲は低湿地帯でこれらが天然の堀を形成していた。城跡は、公園として整備されており資料館が開館している。
清涼閣(表記番地)の道路を挟んだ西に駐車場があり[マップコード275 069 450*17]、三の丸、二の丸(宅地・田畑)、本丸と南北に並んでおり、堀には蓮が自生している。
本丸に「清水宗治城跡」の石碑、辞世の歌碑「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して」が建てられている。
星友寺の東に宗治自刃の碑があり、南に宗治の後を追って家臣が差し違えた「ごうやぶ遺跡」がある(地図)。
南南東600mに高松城水攻築堤(地図)が一部保存され、史跡公園となっている。
城跡と堰堤跡は「高松城跡 附水攻築堤跡」の名称で、昭和四年(1929年)12月17日、国の史跡に指定された。
【歴史】 築城時期ははっきりしないが、備中松山城主・三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城である。
天正三年(1575年)の備中兵乱で石川氏が主家三村氏と共に毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となった。
清水宗治は備中兵乱の際、石川氏の娘婿・重臣でありながら主家を離れて毛利氏に加担したが、清水宗治が城主となった経緯は不詳である。石川氏滅亡以前より宗治が城主であったともいわれる。
織田信長は西進を図り毛利氏と対峙した。毛利方は備中境目七城(高松城・宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)にてこれに備えた。
天正十年(1582年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、境目七城を次々落した。四月、最後に高松城攻めにかかった(備中高松城の戦い)。
高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落を誇っていたため、攻城戦は持久戦となった。
五月八日(5月29日))に入り軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえるものが開始された。これにより低湿地にあった高松城を水没させようというものである。世に言う「高松城水攻め」である。
人夫に過分な金子を与え突貫工事で十一日後に2600mの堤防が完成した。折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ城は見事に水没した。
ここに信長を招く準備をしていたが、六月二日(6月21日)、本能寺の変が起こり計画は頓挫した。翌日、光秀の毛利軍への密使を秀吉軍が拘束。
密書で信長の死を知った秀吉軍は毛利軍に知られぬよう密使を暗殺してこれを秘匿し毛利方の外交官・安国寺恵瓊(えけい)を仲介役に和議を成立させた。城兵の命と引き替えに四日(23日)、宗治は切腹した。
秀吉は主君の仇敵・明智光秀と対決すべく「中国の大返し」を行い、強行軍で近畿に引き返した。
その後、高松城は宇喜多領となり、花房正成が城主として入城した。そして慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、宇喜多氏の旧臣であった花房職秀(職之)が城主となり、高松城に入城した。
この時期に城域も整備されたが、職秀の死後、慶長二十年(1615年)一国一城令で廃城となったと思われる。