高越山城 (たかこしやまじょう)
所在地 岡山県井原市神代町 2022.5.5
高越山城 (たかこしやまじょう)
所在地 岡山県井原市神代町 2022.5.5
登城ルート(緑線は車道)
4郭
主郭・土壇
北条早雲生誕の地碑
2郭
2郭北の井戸
高越山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【感想】 井原市神代町の標高172.3mの高越山に築かれている。
高越城址公園として整備され、山頂の主郭には土壇があり、北、南東、南西の三方の尾根に3つの郭が配置されている。
堀切は見られないが、南東斜面に石組井戸がよく残っている。
【案内】 高越山の北側を通る市道より城跡への車道が始まり[マップコード111 392 104*16]、南へ約550m行くと駐車場が用意されている[マップコード111 362 496*78]。
南へ約300m歩くと、4郭に着き、その北の最高所が主郭で、土壇上に高越城址碑や北条早雲生誕の地碑が建てられ三角点がある。
南東に2郭があり、下段の北側に石組井戸が残っている。
北に3郭、4郭の南西に5郭があり、そこから遊歩道を南西に歩くと出城がある。
【歴史】 鎌倉時代末の弘安四年(1281年)、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて築かせたと伝えられている。
戦国時代、京都伊勢氏の一族・備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原庄を治め、高越城を居城とした。
伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、永享四年(1432年)伊勢盛定の子としてこの地で生まれた。
新九郎は青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺で学んだといわれている。その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕え、応仁の乱後、妹の嫁ぎ先の守護今川家に身を寄せた。
新九郎は今川家の家督争いを治め、56歳にして駿河国興国寺城の城主となった。
その後伊豆国、相模国を治め88才で亡くなるまで北条5代の関東支配の基礎をつくり、戦国大名の先駆けとなった。
伊勢氏没落後は、毛利氏の家臣宍戸隆家の持城となった。
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