富松城 (とまつじょう)
最寄地 兵庫県尼崎市富松町2丁目8−5 2014.5.1
富松城 (とまつじょう)
最寄地 兵庫県尼崎市富松町2丁目8−5 2014.5.1
土塁・堀跡
土塁
本丸跡
富松城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道606号線「富松城跡前」交差点より南30mにある「業務スーパー富松店」(表記番地)[マップコード1 603 396*36] 北の道路に面して土塁が残り、バス停側に堀がある(地図)。バス停名も「富松城跡」である。
富松城は、伊丹城、大物(だいもつ)城、越水(こしみず)城の中間地点にあり、境界防衛や連絡の城として攻防の要となり、度々戦火に見舞われ、長期にわたってここを本拠地とした城主はなく、戦乱のたびに入れ代わった。
【発掘調査】 富松城の規模は、平成六年(1994年)の発掘調査で東西に150m、南北200mの館城で、周囲に土塁、二重の水堀がめぐらされている中規模の城であったことが推定された。また、昭和三十八年(1963年)の道路工事に伴う発掘調査からは、矢倉台の土台らしき遺構が発見された。
【歴史】 平安時代にはこの地は富松荘と呼ばれた荘園であった。この時代から薬師寺氏が管理しており、築城も薬師寺氏の可能性が高いと思われる。
長享元年(1487年)十一月の「年貢算用状」に富松城の初見が見受けられる。
永正十六年(1519年)の越水城の合戦で、細川高国軍は瓦林正頼を援護するために富松城に陣を敷いたが、その後正頼が越水城を開城したため、細川澄元方の武将が入城した。
大永七年(1527年)の桂川原の戦いで敗れた高国は、浦上村宗の力を借りて摂津に侵攻した。この際に細川晴元派として富松城を防衛していたのは薬師寺勢であった。
享禄三年(1530年)九月二十一日、細川高国軍は神呪寺城から朝駆けで攻撃したが、晴元派の救援があり一旦兵を引いた。
しかし同年十月十九日、再び攻め込み薬師寺軍を伊丹城に敗走させ、富松城を高国軍の本陣とした。
薬師寺氏は代々高国派であったが、例外的に薬師寺勢は高国に敵対していた。しかしこの敗走により再び高国派に寝返った。
この後、享禄四年(1531年)六月「大物崩れ」で高国が自害し、薬師寺氏も勢力を失うことになった。
主が居なくなった富松城が次に歴史に姿を現すのが、天文十年(1541年)である。一庫城の戦いで2ヶ月間包囲していた三好長慶軍は、木沢長政軍が大軍で攻めて来たため、一旦越水城に兵を引いたが、逆に木沢軍は越水城を包囲し、後詰の軍を富松城に配置した。
木沢軍は越水城へ攻撃を開始、西宮に放火して回った。これに対し三好軍は阿波に援軍を求め、同年十月二日に反撃を開始、包囲軍を撃退し富松城も落城させた。
その後富松城は三好長慶派に占拠された。三好政長と長慶との争いの中で、政長軍は、越水城と中嶋城の長慶軍の分断を目的として、天文十八年(1549年)五月一日に富松城を攻撃するものの、落城させることはできずに退却した。
その後江口の戦いで政長は戦死、長慶方が勝利した。長慶は最後まで抵抗していた伊丹城を落とすため、天文十九年(1550年)一月十一日に富松城に入城したが、結局同年三月二八日に和議が成立した。
三好長慶時代には越水城の支城になり、織田信長の摂津進攻により越水城を放棄するまでは三好方の武将が詰めていたと思われる。廃城となった時期は明確でない。『立花志橋』によると天正年間(1573~92年)までは存続したと思われるが、その後の経過については不明である。