伊作城 (いざくじょう) (亀丸城) (県の史跡)
所在地 鹿児島県日置市吹上町中原 2014.5.11
伊作城 (いざくじょう) (亀丸城) (県の史跡)
所在地 鹿児島県日置市吹上町中原 2014.5.11
登城ルート(緑線は車道/赤丸は亀丸城/緑丸は御仮屋城/青丸は蔵之城/水色丸は山之城)
山之城登り口
山之城北堀切
山之城跡
蔵之城跡
亀丸城と蔵之城入口・堀切
亀丸城趾之碑
大空堀
伊作城 亀丸城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道22号線「小牧」交差点より北東へ約800m、伊作川を渡ってすぐ左折し北に約350m行くと専用駐車場がある[マップコード 505 658 207*76 ]。鹿児島では曲輪それぞれを城と呼ぶ。
南に山之城跡(地図)があり空堀が残っている。北東に四つに分けらてた東之城があり、蔵之城(地図)、本丸にあたる亀丸城、御仮屋城(地図)、西之城、少し離れて花見城がある。
本丸の亀丸城には日新公御誕生地の碑や誕生石、島津忠良(日新斎・じっしんさい)の三人の息子島津貴久・忠将・尚久そして島津義久・義弘・歳久・家久の島津四兄弟の誕生地でもあり、記念の石碑が郭の西に残っている。
土塁も確認できる。東之城の北や御仮屋城の南に大空堀が残っている。
南北朝時代から戦国時代に増築を進められてきた城で、最盛期には南北750m、東西1050m、城域全体の面積は50万㎡という広大な規模を誇っていた。南に大手口、北に搦手口があった。
地勢は、城の東から南に向かって伊作川が流れ、北と西側は多宝寺川が流れて、天然の堀となっていた。北から東側はシラス台地につながっているため攻め込まれないよう箱堀が掘られていた。
昭和三十年(1955年)7月13日「亀丸城跡」として鹿児島県の指定史跡となった。
【歴史】 発祥の時期は明らかではないが、南北朝(十四世紀前半)に薩摩大隅の守護島津氏の分家伊作家の城として築かれたと考えられる。その頃は「中山城」と呼ばれていた。
戦国時代にはここを拠点として島津忠良が南九州統一に繰り出し戦国大名・島津氏雄飛のきっかけとなった城でもあった。
室町後期(十五世紀後半)には守護島津家の領国経営のため、伊作島津家の当主が日向に派遣され、家臣の末森氏等が留守を預かっていた。
延徳四年(1492年)島津忠良が、この城で生まれ、父が早くなくなり、母や海蔵院の頼増和尚の教えを受け成長した。
20才の頃には阿多と田布施を領した島津相州家も相続し勢力を拡大し、大永六年(1526年)には子・貴久を島津本宗家の養子とした。
天文五年(1536年)三月、島津家中の統一を目指していた島津忠良・貴久親子は先祖代々の居城であった伊作城から、一宇治城に本拠を移した。その後忠良は貴久と共に薩摩半島を統一した。
貴久は天文十九年(1550年)本拠を清水城から鹿児島内城に移し、ついに島津本宗家の当主となった。その後、忠良は隠居し愚谷軒日新斎と号し、孫たちの教育に当たった。
伊作家が島津氏の本宗家となると伊作城は外城の一つとなったが、島津氏の宝物殿がおかれ、鹿児島城下士が交代で番所勤めをするなど別格の扱いを受けていた。
慶長二十年(1615年)の一国一城令で廃城となった。