須古城 (すこじょう) (高城)
所在地 佐賀県杵島郡白石町堤1496 2020.3.10
須古城 (すこじょう) (高城)
所在地 佐賀県杵島郡白石町堤1496 2020.3.10
登城ルート(緑線は車道)
須古小学校
鶴亀の池(藩政期)
東側帯郭・四阿
桝形虎口の石垣
帯郭(北西)
2郭
2郭の石垣
主郭
弾よけ岩
須古城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高35m】
【感想】 白石町堤の標高41.5mの小山全体を要塞化した城で、頂上に主郭を置き西側に2段の郭がある。
主郭には崩れているが石塁を巡り、2郭北に石垣がよく残っている。
帯郭の井戸や石塁、桝形虎口の石垣、西側斜面の石積みなど見所は多い。
須古小学校は半世紀の鍋島家の屋敷跡である。
【案内】 県道214号線より東に行った須古小学校東側道路に面して説明板が建てられている。
小学校南に隣接する「須古三近堂コミュニティセンター」(表記番地)裏に駐車場が用意されている[マップコード104 357 177*10]。
南側に藩政期の庭園「鶴亀の池」があり、山裾に鍋島八重垣姫の供養碑が祀られている。
駐車場から直接登れ、同心円状の帯郭に井戸跡が2ヶ所残り、西側に桝形虎口があり、北東側に出丸がある。
桝形虎口の上段に2郭があり、北側に石垣が残っている。
主郭周囲には崩れた石塁があり、岩場を利用した社「弾よけ岩」が見られる。
【歴史】 天文年間(1532~55年)高来の有馬氏に備え、小城の千葉氏の家臣・平井氏によって築かれたと云われる。
その後平井経則は、有馬氏に寝返り西に杵島城、東に男島(小島)城を配備して、須古城(高城)の両翼とした。
龍造寺隆信は有馬氏に応じた平井経治を討つことにし、永禄六年(1563年)攻撃を開始し、天正二年(1574年)までの12年で4度の戦闘の末、落城させた。
隆信は五州二島の太守として君臨したが、天正十二年(1584年)島原で島津・有馬の計略にかかり惨憺たる敗北を喫し、隆信は戦死した(56歳)。
隆信戦死後、舎弟龍造寺信周(須古鍋島家始祖:杵島神社祭神)が須古城に入り、南北外堀を埋め、良田百余町を開拓した。