虎倉城 (こぐらじょう)
最寄地 岡山県岡山市北区御津虎倉3654 2021.2.12
虎倉城 (こぐらじょう)
最寄地 岡山県岡山市北区御津虎倉3654 2021.2.12
登城ルート(緑線は車道)
檻・手前に駐車
沢を渡った標識
北出丸・供養碑
本丸北の堀切
本丸・城址碑
二の丸
虎倉城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高200m】
【感想】 御津虎倉にある宇甘(うかい)川右岸の標高約324mの山頂に築かれている。
本丸の南東に二の丸、北西の歓喜山に北出丸、南東尾根の三角点の頂上に南出丸が配置されている。北出丸の堀切や本丸北の堀切が見どころとなっている。
【案内】 宇甘川北の市道より20m北の表記番地向かいに三十番神社があり、説明板が建てられている[マップコード275 580 260*50]。
そこからカーナビには表示されないが、集落北西外れから林道が始まる(地図)。
林道は半分は舗装道で残りも轍の少ない平坦な砂利道で、約400m行った檻の手前終点に駐車できる(およそこの辺り)。
そのまま直進し沢を2回渡った先に道標があり、右に登って行く。道標が多く建てられ、尾根の堀切に着き、そこに説明板が建てられている。
南東に行くと北出丸があり供養碑が建てられている。さらに南西に行くと、堀切があり、西側から回り込むと本丸があり、「史蹟虎倉城址」の石碑が建てられている。
南に二の丸があり、多少薮もあるが、細尾根を南に行くと南出丸が2段になっており、三角点がある。
【歴史】 文明十二年(1480年)頃、赤坂郡鍋谷の城から伊賀伊賀守が移ったと云われる。一説に応永の頃(1400年頃)伊賀兵庫守が築城したとも、大永七年(1527年)金川城松田氏の出城として服部伊勢守が築城したともいわれる。
その後、松田氏家臣の伊賀氏の居城となり、城主は伊賀勝隆-久隆―与三郎家久の名が知られている。久隆の時が全盛で宇喜多氏の有力武将として備中国東部を支配した。
天正二年(1574年)毛利氏が攻め寄せた虎倉合戦が行われたが、毛利勢は敗退した。
その後宇喜多氏と対立し、天正六年(1578年)久隆が病没し、与三郎は城を出、伊賀氏は離散し家臣の多くは奥津高に帰農した。
その後宇喜多氏の家臣・長船越中守が入城した。
天正十年(1582年)小寺官兵衛が一時在城した。
天正十六年(1588年)長船氏と一族の石原氏の内紛があり、城は焼けて廃城となった。