松尾城 (まつおじょう)
最寄地 大分県豊後大野市三重町松尾1596 2016.5.16
松尾城 (まつおじょう)
最寄地 大分県豊後大野市三重町松尾1596 2016.5.16
登城ルート(緑線は車道)
城山入口
登り口・説明板
説明板
頂上手前
主郭・ 櫓台
頂上・説明板
松尾城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高140m】
【案内】 県道35号線より左折、橋を渡って「吉祥寺」石段前を左折、川の右岸を400mほど行くと、林道入口がある[マップコード237 208 166*82] (地図)。
その前に1台の駐車スペースがある。表記番地左側の林道の途中に「祭場」(兵の宿舎跡と思われる)と呼ばれる広い平坦地があり、300mほど登ると、右に松尾城跡入口がある。そこから比高70mほど南東に行くと、城山頂上に着く。
標高273mの頂上左側に、削り残した櫓台があり、中央に説明板、右側に平坦地がある。頂上からの眺望はよい。
平成元年(1989年)5月19日三重町の史跡に指定された。
【歴史】 築城時期は不明であるが、豊後国守護の大友氏により薩摩の島津氏との抗争が激化した天正期には存在したとされる。
天正十四年(1586年)十月に島津家久軍1万余騎が日向より入城した。麓の広福寺(現吉祥寺)から山麓一帯に陣を張り、佐伯の栂牟礼城、臼杵の丹生島城(臼杵城)、大分の鶴賀城等の攻撃拠点となった。
更に戸次川の合戦で大友・長曾我部・千石氏らの連合軍を破り、府内を占領する間松尾城は一時空城となった。
翌十五年、豊後を制圧した島津軍は一旦松尾城に帰還するが、大友氏の救援を請けた豊臣秀吉軍の接近の報によって、三月に退却し、その際広福寺を含めたすべての城郭施設は焼き払われ、短い存在期間を終えた。『三重町教育委員会説明板』より。