宮津城 (みやづじょう)
所在地 京都府宮津市外側2508 2015.5.17
宮津城 (みやづじょう)
所在地 京都府宮津市外側2508 2015.5.17
復元城壁・大手川
宮津小学校の移築門
袖石垣の石・大手門礎石(手前)
宮津城本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 本丸は宮津市鶴賀の市街地となり消滅している。
平成二十二年(2010年)大手川に沿って長さ240mの城壁が復元され、宮津小学校(表記番地)東側裏門に在った門が正門として移築された[マップコード197 113 624*18] (地図)。
宮津武田病院(宮津市鶴賀2059-1)国道178号線に面した一角に、鉄門(くろがねもん)の袖石垣、大手橋橋脚の礎石、船繋ぎ石が展示されている(地図)。
弘化二年(1845年)の「宮津城下絵図」によると、二の丸は大手川の東に東西600m南北500mの広さを持ち、内堀に囲まれた本丸があった。
【歴史】 丹後国府のあった宮津の地は、古代より丹後の中心地であった。この付近には一色氏の本拠地があり、多くの支城や砦が築かれていた。
天正六年(1578年)信長の命により、細川(長岡)藤孝と明智光秀は丹後国を侵略し、一色氏を滅亡させた。
その功により細川藤孝には丹後国が与えられ、明智光秀には丹波国が与えられた。
藤孝は宮津城を築き、ここを丹後経営の中心地とした。しかし藤孝は天正十年(1582年)の本能寺の変に際して明智家との非協力を内外に伝えるため出家し、幽斎と称して田辺城(現舞鶴市)に隠居した。
その後、幽斎の子忠興の居城となるが、慶長五年(1600年)の関ヶ原前夜、忠興が会津征伐へ赴いている最中に石田三成が、豊臣秀吉の遺命を無視する徳川家康の打倒を宣言した。
細川家は徳川方に味方するが、これにより丹後細川領は西軍から攻撃を受けることになった。留守を預かる藤孝は隠居所の田辺城に篭城し、後勅命により開城した(田辺城の戦い)。
関ヶ原の戦い後、細川家は豊前国に転封し、代わりに京極高知が丹後国12万3千石を拝領し入封した。高知は晩年、丹後の中心地をふたたび舞鶴から宮津城に移し、城もこの時に大規模に改修された。
高知は丹後を3分割し、本藩の宮津藩・支藩の田辺藩・峰山藩を創設した。宮津藩主になった京極高広は、さらに宮津城を大規模に改修し、本丸に七基の二重櫓をあげるなど、近世の城として宮津城を改修した。なお当初の田辺藩や峰山藩は丹後宮津藩の藩内の分家であり、独立した藩ではないという見方もある。
その後、宮津藩京極氏も2代目当主・高国の代に領国を召し上げられ、旗本となった。京極家は名家でもあったので、高家になっていた時期もある。
その後は永井家・阿部家・奥平家・青山家と目まぐるしく城主は替わったが、宝暦八年 (1758年)に青山氏2代幸道(よしみち)が郡上藩に移封され、代わって松平資昌が7万7千石で入封し、以後松平氏が7代続いて、明治維新を迎えた。