中村城 (なかむらじょう) (為松城)
所在地 高知県四万十市中村2356 2013.9.13
中村城 (なかむらじょう) (為松城)
所在地 高知県四万十市中村2356 2013.9.13
登城ルート(青は為松城/緑は二の丸/紫は東ノ城)
石垣・城址碑
二の丸土塁
二の丸・市立郷土資料館
為松城曲輪
幸徳秋水の顕彰碑
東ノ城曲輪
中村城 為松城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 中村城跡は西に四万十川、東に後川を望み中村平野を一望できる丘陵に築城され「東ノ城」「為松城」「中の森」「御城」「今城」の五城から構成され面積はおよそ10,586㎡あり、石垣が残っている。
市立郷土資料館(表記番地)の約60m西に駐車出来る[マップコード276 891 176*04] 。道路に面して石垣が残り、「中村城跡」の石碑がある。
石垣は昭和四十年(1965年)に発見されたもので、中村藩2万石2代藩主山内政豊時代の慶長十八年(1613年)に修復されたものであると考えられている。
二の丸跡(地図)に郷土資料館として模擬天守が建てられその南に土塁・虎口が残っている。虎口を通って北西50mに「為松城跡」の碑があり、約800㎡の本丸(詰)であり、為松城は八区画で形成されていた。
本丸には地元出身で明治の社会主義運動の先駆者幸徳秋水の顕彰碑があり、桜が多数植えられ遊具のある公園となっている。駐車場より東に少し下った所に「東ノ城跡」(地図)がある。
【歴史】 応仁元年(1467年)の勃発した応仁の乱を避け、左大臣・関白であった一条教房(のりふさ)が、翌年、荘園であった中村に下向しそのまま戦国大名として土着し、元々この地にいた豪族(国人)の為松氏が家老として取り立てられ、その為松氏により築城されたのが始まりと考えられている。
代替わりして一条兼定は、永禄元年(1558年)に伊予国の宇都宮豊綱の娘を娶るが、永禄七年(1564年)に離別して豊後国の大友義鎮(宗麟)の次女を娶り大友氏と結んだ。
兼定は素行が悪く家臣により天正二年(1574年)二月に豊後国臼杵へ追放されて大友氏を頼った。翌天正三年、一条兼定は中村に復帰を試みたが長宗我部元親に攻められ滅亡した。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦い後、戦功により山内一豊に土佐一国が与えられ、慶長六年(1601年)山内一豊の弟康豊が2万石で入った。
慶長二十年(1615年)の一国一城令に伴い、廃城となった。