岩牟礼城 (いわむれじょう) (岩瀬城)
最寄地 宮崎県小林市野尻町三ヶ野山3222−1 2014.9.9 2019.3.5
岩牟礼城 (いわむれじょう) (岩瀬城)
最寄地 宮崎県小林市野尻町三ヶ野山3222−1 2014.9.9 2019.3.5
城跡標柱・説明板
登城ルート
工場の入口・遠景
峠付近から左へ
西端の堀切
主郭・三角点
東側1番目の堀切
東側2番目の堀切
岩牟礼城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高170m】
【感想】 標高365.4m比高約170mの城ノ岡山頂に築かれており、曲輪と東西に堀切が3条ほど残っている。
今回登った舗装道路は工場内を通っているので、気兼ねしながら登った。峠からは、遊歩道が整備されていたらしく、大部分そこを利用した。
【案内】 2014年に訪れた時は登山口が見つからず、踏査できなかった。
2回目の挑戦でかねて見当をつけていた㈱三共(表記番地)の西側の道路から登ってみた(途中まで工場内で、トラックに注意しながら登る。野尻町の標識があり、町道であることが分かる)。
国道268号線は交通量多く、東側の砂利道に駐車した[マップコード227 497 539*88](地図)。
5号目付近の峠(地図)から左に作業道があり、その先から直登すると、50m程で遊歩道に出、そこを登ってゆくと西端の堀切に着く。
右に登ると斜めの堀があり、城ノ岡頂上に着く。東側下段に細長い曲輪があり、その先に堀切が2条残っている。
国道268号線との交差点付近に説明看板と城跡標柱が建てられている[マップコード227 496 569*81](地図)。
【歴史】 築城年代は不明であるが、伊藤氏が小林を最前線にしていた頃は、守備兵を置き、危急の時は狼煙を上げて、野尻城以下各城への連絡に備えていた。
天正四年(1576年)に高原城、小林城、須木城が島津氏に帰すると、岩牟礼城も島津氏の城に帰したとされる。
天正十五年(1578年)、豊臣秀吉が九州征伐に乗り出した際は、豊臣秀長の軍がこの城まで侵攻してきた。元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。
明治十年(1877年)の西南戦争の際には、この城跡に立て籠もった西郷軍と、水流迫(つるざこ)に陣を構えた官軍が砲撃戦を行った。『小林市教育委員会説明板』より。