延岡城 (のべおかじょう) (亀井城・縣城)(あがたじょう)
所在地 宮崎県延岡市東本小路178 2013.10.11
延岡城 (のべおかじょう) (亀井城・縣城)(あがたじょう)
所在地 宮崎県延岡市東本小路178 2013.10.11
三の丸跡
井戸跡
復元北大手門
二階櫓門跡
高石垣
天守台跡
延岡城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【案内・感想】 北麓の「北城山街区公園」駐車場が利用できる[マップコード136 889 444*84]。
北に五ヶ瀬川、南に大瀬川の間の独立丘陵に延岡城跡がある。山頂の東から本丸、二の丸、三の丸と並んでいる。
天守台跡に鐘撞堂があり、現在も1日に6回、鐘守の媼が市民に時刻を告げておられる。
北側の一段下がった所に「城山公園(事務所)」(表記番地)があり、北大手門が復元され、正面に千人殺しの高石垣が聳える。石垣が残り井戸跡が保存されている。
城跡に牧水の「なつかしき城山の鐘鳴りいでぬをさなかりし日聞きしごとくに」の歌碑が建てられており、本丸からは五ヶ瀬川に沿った延岡市街が望める。
【歴史】 慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで、はじめ西軍に属していた高橋元種は東軍に内応し寝返り家康に所領を安堵された。
慶長六年(1601年)高橋元種が築城を始め、慶長八年に落成した。その後、明治維新までの江戸期を通して、縣藩(三浦明敬による支配以降は延岡藩)の政庁となった。
しかし、高橋元種は慶長十八年(1613年)に罪人を匿ったとして改易され、慶長十九年(1614年)その後は有馬直純が島原藩(日野江城)より入封した。
その後三浦氏・牧野氏と続き、内藤氏の時、明治維新を迎えた。
明暦元年(1655年)の有馬康純の修築時に建設された天守代用の御三階櫓は、天和三年(1683年)に焼失し、以後再建されなかった。
明治三年(1870年)十月に薬園として活用することを新政府へ出願し、廃城となった。
西ノ丸は内藤氏の私有地となるが、明治十四年(1881年)に延岡市へ寄贈され、「内藤記念館」として利用されたが、昭和二十年の太平洋戦争時の米軍空襲により焼失した。