池田城 (いけだじょう)
所在地 大阪府池田市城山町3‐46 2014.5.1
池田城 (いけだじょう)
所在地 大阪府池田市城山町3‐46 2014.5.1
木橋・空堀
木橋・東門
展望休憩舎・庭園池
塀・排水溝・虎口門
庭園・御殿礎石
西側切岸
池田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 府道9号線に面した五月山体育館北の有料駐車場(1時間300円)が利用できる[マップコード1 876 083*58]。
池田城跡公園(表記番地)には東、南、西、北の4カ所の門から入城できる。
東側に空堀があり、北側には杉ヶ谷川が流れ、南、西側は断崖となっている。空堀には木橋が架けられ東門が復元されている。
西門、南門が夫々復元され周囲は土塀で囲われている。東に排水溝、虎口門、中央に井戸・枯山水・池・庭園が復元されている。
南に展望休憩舎が建てられ、中央に御殿礎石群が残り、北㟨に茶室がある。
【歴史】 室町時代から戦国時代にかけて、豊島郡(現在の池田市、豊中市、箕面市周辺)を治めていた国人領主・池田氏の居城だった。
応仁の乱で東軍について、文明元年(1469年)に西軍の大内政弘の軍に攻められた。
永正の錯乱に端を発した細川氏の内紛で、細川澄元派に属していた池田貞正は、永正五年(1508年)に反対勢力であった細川高国の攻撃を受けて落城、貞正は自殺し、子の信正は逃亡した。
その後、享禄四年(1531年)の「大物(だいもつ)崩れ」でも高国の攻撃を受け、この戦いの後に、城の主郭の堀を広げ周りに土塁を設け、南側にも連郭状の曲輪を設け防御陣地を広げていった。
天文二年(1533年)、享禄・天文の乱で二月に一向一揆に敗れて堺から淡路へ逃れていた細川晴元が四月に池田城に入城、畿内へ戻った。
永禄十一年(1568年)、池田勝正は織田信長に抵抗したが織田軍の攻撃を受け落城した。しかし勝正は抵抗した咎めを受けなかった上に逆に評価され、信長から6万石を賜って家臣となった。池田城の虎口は城内に二度曲げ、それ以外に東側に横堀を二条掘削し、大規模な曲輪を設け、城域を拡張した。
池田勝正は信長に摂津三守護の一人に任命されたが、三好三人衆についた一族の池田知正や荒木村重によって池田城から追放された。
荒木村重は摂津三守護の和田惟政、伊丹親興を討ち取って茨木城と高槻城を手中に収め、元亀四年(1573年)知恩院で信長と対面し忠誠を誓った。
信長は高槻城攻略を激賞し、村重に摂津の単独守護職を認めた。池田知正は義昭に就いたため没落、池田城を乗っ取った村重の家臣になった。
天正六年(1578年)荒木村重は謀反を起こし、信長は高槻城、茨木城を無血開城に成功し、池田城に陣を置いた。
村重は翌年九月二日の深夜、家来5、6名をつれて尼崎城へ移り、毛利氏に援軍を要請しに出向いた。
織田信長はこの時を好機ととらえ再び総攻撃を命じ、天正七年(1579年)十一月有岡城は落城した。
生き残った妻子や家来は尼崎七松で処刑された。村重は生き残り、その後秀吉の茶人となったと言われている。
池田知正も妻子を尼崎七松で処刑されたが、秀吉の家臣になった。池田城は、有岡城が落城した翌天正八年(1580年)、信長の命により廃城となった。