久美浜城 (くみはまじょう) (松倉城)
所在地 京都府京丹後市久美浜町3369 2019.10.23
久美浜城 (くみはまじょう) (松倉城)
所在地 京都府京丹後市久美浜町3369 2019.10.23
登城ルート
久美浜小学校
5段目・稲荷神社
4段目
3段目
2段目・奥が主郭
主郭・ 松倉城址碑
西側堀切
久美浜城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高55m】
【感想】 久美浜湾を望む標高59mの山頂に築かれている。主郭から北東に弓なりに6段の郭があり、5段目に城山稲荷神社が祀られている。
西側に下ると箱堀状の堀切がよく残っている。
【案内】 県道11号線「土居」交差点より西に行った「久美浜小学校」(表記番地)が、久美浜代官陣屋跡であり、正門横に説明板が建てられている。
県道側に城山稲荷神社への参道入口がある[マップコード577 377 552*44]。駐車スペースは限られる。
校庭からも登れ、6段目に四阿、5段目に城山稲荷神社が建てられ、主郭に松倉城址の石碑が建てられている。西尾根に降ると堀切が見られる。
【歴史】 築城年代は定かではないが、戦国時代の城主は一色氏の家臣・松倉周防守であった。
天正十年(1582年)松倉周防守は、細川氏の部将松井佐渡守康之との戦いで討死した。
丹後を平定した細川忠興は久美浜城1万3千石を松井佐渡守康之に与えた。
天正八年(1580年)豊臣秀吉の鳥取城攻めの際には、康之は水軍を率いて秀吉に味方し、7千石を加増されて2万石となった。
慶長四年(1599年)、細川忠興の飛領地となった豊後国の杵築城代として、松井康之は豊後に移った。
慶長五年(1600年)関ヶ原合戦では細川忠興が東軍に属した為、留守を預かる細川幽斎は留守居の諸将を田辺城に掻き集めて籠城した。このとき西軍により久美浜城も焼き払われた。
元禄十年(1697年)丹後代官を久美浜に設置し、当時陣屋は大津・京都にあって、丹後代官を兼ねていた。
享保年間、湊宮船見番所を陣屋と改め、享保二十年(1735年)海上弥兵衛の時、陣屋をこの地に移し、以後明治維新まで続いた。その所領は丹後、但馬7万石であった。
明治元年(1868年)、久美浜県となり、県庁所在地として繁栄した。坪数は7千坪で、石高も丹後・但馬・丹波・播磨・美作の5ヶ国23万石以上となり、明治四年(1871年)豊岡県の設置まで短期間であるが大いに発展した。