将軍山城 (しょうぐんやまじょう) (北白川城・瓜生山城)
最寄地 京都府京都市左京区一乗寺松原町6 2018.8.8
将軍山城 (しょうぐんやまじょう) (北白川城・瓜生山城)
最寄地 京都府京都市左京区一乗寺松原町6 2018.8.8
登城ルート(緑線は車道)
登り口
石碑・谷道
本丸・幸龍大権現社
西側下段の郭
西側3段目の郭
将軍山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高120m】
【感想】 中尾城の北約1.3km、標高301mの瓜生山頂に築かれており、3段の広い郭が西側に続いている。本丸には六角定頼が安置したとされる「勝軍地蔵」の石室や「幸龍大権現」の社が祀られている。
【案内】 白川通より曼殊院道に入り約1km行った狸谷不動院の参詣駐車場が利用できる[マップコード7 741 636*70]。
参道の階段を250段登ると、不動院に着き、その横より「36童子めぐり」の遊歩道が設けられている。
尾根に出て、右に登ってゆくと瓜生山頂の本丸に幸龍大権現が祀られている。西側に4段の郭が階段状に並んでいる。
尾根を左に「京都一周トレイル」を500mほど行くと出丸跡へ着く。
【歴史】 永正十七年(1520年)管領・細川高国は、近江守護六角定頼、丹波守護代内藤貞正の援軍を得て、築城し陣を構えた。
桂川原の戦いで高国が再び近江へ逃亡すると、将軍山城は六角定頼の援助のもと被官内藤彦七が城主となっていたが、大物崩れで享禄四年(1531年)に高国が自害すると、隣にある東山新城と共に細川晴元軍に奪取された。
天文十五年(1546年)、将軍足利義晴が細川晴元と対立するようになると、義晴は北白川城を大改修した。
天文十六年(1547年)三月、足利義晴は征夷大将軍を子・義輝に譲り自らは大御所となり、晴元を討つために洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで父子共々ここに籠城するものの、晴元の家臣三好長慶軍が同年七月十二日、相国寺に2万の軍勢で陣を張り周辺地域を焼き討ちした。同月十九日、足利軍は将軍山城を自焼させ、義晴・義輝父子は近江坂本へ脱出した。
永禄四年(1561年)、六角義賢が畠山高政と組んで京へ出陣し、家臣永原重澄を将軍山城へ入れたが、三好方は松永久秀が将軍山城を攻め、守将永原重澄を討ち取った。
元亀元年(1570年)九月から十一月まで志賀の陣(織田信長と浅井・朝倉が対峙)となり、明智光秀がこの城に入って数カ月延暦寺を牽制するが、織田信長の京都支配が確立すると、その軍事的意義を失って廃城になったと見られている。