長岩城 (ながいわじょう) (県の史跡)
最寄地 大分県中津市耶馬溪町川原口712 2015.5.13
長岩城 (ながいわじょう) (県の史跡)
最寄地 大分県中津市耶馬溪町川原口712 2015.5.13
登城ルート(赤は東の台/緑は西の台/青は石積櫓)
入口・遠景
石積櫓
3の城戸上部石塁
東の台(主郭)
東の台南の堀切
西の台・土塁
長岩城 東の台跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高200m】
【案内・感想】 県道2号線を入った表記番地西に駐車場・トイレが用意されている[マップコード383 291 305*47](地図)。
水田の畦道を南に行き、橋を渡ると登り口がある(地図)。
猪除けフエンスを開け閉め、左に少し下ると「1の城戸」の石塁が残っている。
沢伝いに登ると「2の城戸」があり沢の両側に石塁が良く残っている。沢を渡ってしばらく登ると「3の城戸」がある。そこより西の山頂「東の台」に向けて石塁が延びている。
「3の城戸」より左手(南東)に登って行くと「陣屋跡」の虎口両側に石塁が残っている。直進すると「石積櫓」方面で、左側に行くと高台に「砲座跡」がある。
「石積櫓」へ行く頂上付近は断崖となり、スライド2段梯子を伸ばした登りと、1段梯子の架けられた下りがあり、尾根に沿って東に進んだ先端の岩場に、トーチカ風の3か所銃眼のある「石積櫓」(地図)がある。
「3の城戸」へ戻って、西へ石塁に沿うように登って行くと、「東の台」(主郭)の虎口石垣があり腰郭があり、標高530.8m比高約200mの最高所に主郭がある。
主郭には石垣、礎石が残り、「長岩城址修復記念之碑」(昭和59年3月)が建てられている。
西側に堀切があり石塁が両側に築かれ、「文字堀虎口」を登ると「西の台」で、土塁、石垣、石塁が残っている。
南に3重堀切があり、下って行くと、東の台登り口と合流する。
大分県の史跡に指定されている。
【歴史】 豊前国守護・宇都宮信房は弟重房に下毛郡野仲郷を分与した。重房は野仲氏を名乗り、建久九年(1198年)長岩城を築城した。
以後、野仲氏22代390年間の居城となった。野仲氏は次第に勢力を拡大し、下毛郡の政治軍事を掌握し、下毛郡を治めた。
その間、元寇の役や、玖珠城の戦い、大友宗麟の来攻等で強豪振りを発揮した。
南北朝時代に野仲道棟・道春父子は北朝方として高勝寺城(玖珠城)を攻めた。
永正五年(1508年)野仲興道は周防国大内氏と共に上洛し、船岡山合戦に参陣した。
戦国時代には大内氏に属したが、大内義隆が陶晴賢に討たれた後、大友宗鱗の弟晴英が大内義長と改名して大内氏を継ぐと、大友宗鱗が豊前に勢力を伸ばした。
この時野仲重兼は籠城して大友氏と対峙したが降伏、大友宗鱗はその武勇を賞して"鎮"の字を与え、野仲鎮兼と称した。
しかし、天正十六年(1588年)には、後藤又兵衛を先陣とする黒田長政の精兵3千5百騎の大軍に攻められ、迎え撃つ長岩城軍は城主野仲兵庫守鎮兼以下一族郎党7百余、与力雑兵8百余、合わせて1500余が、難攻不落を誇った堅城に立て籠もり奮戦したが、遂に落城し、野仲一族は自決滅亡した。以後廃城となった。