清武城 (きよたけじょう)
所在地 宮崎県宮崎市清武町加納甲785 2018.12.15
清武城 (きよたけじょう)
所在地 宮崎県宮崎市清武町加納甲785 2018.12.15
登城ルート(緑線は車道)
登り口の案内標識
下段の郭
主郭南側・城趾碑
主郭・城趾碑
主郭北東の堀切
清武城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高15m】
【感想】 宮崎市清武町加納の標高85.6mの丘陵に築かれている。主郭は大半が竹藪となっているが、北東側の駐車した背後に堀切があり、そこから切岸が望める。南側に郭が2つ畑として残っている。
【案内】 北麓を通る市道に案内標識があり、南に120m行った付近に1台駐車できる[マップコード66 106 615*54](地図)。
更に120m行くと案内標識があり、右折し表記番地横を登ってゆくと、2段になった城跡がある。
主郭は竹藪となり、南の開けた場所に「清武城趾」の石碑と説明板が建てられている。
昭和四十五年(1970年)7月23日、宮崎市の史跡に指定されている。
【歴史】 天授五年(1379年)伊東家の一族清武祐行により、築城された。
「伊東四十八城」の1つで島津氏に対する守りとして特に重要な拠点であったとされ、伊東氏全盛の祐堯(すけたか)が子祐国の島津攻撃を見送り、ここ清武城で病死した。
天正五年(1577年)の伊東氏没落後は、島津氏武将・伊集院久宣が入城した。
天正十五(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐後、伊東祐兵が飫肥・曾井・清武を宛がわれ家臣・稲津掃部助重政が城主となった。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、稲津掃部助は東軍方として西軍高橋元種の持城である宮崎城を攻略したが(城代は権藤種盛)、直前に高橋氏が東軍に寝返っていたため、その責を負い孤立し、やがて罪状を得て、慶長七年(1602年)十月十八日、藩主伊東祐慶に清武城を攻められ誅殺された(稲津の乱)。
その後、河崎駿河守が城主となったが、元和元年(1615年)一国一城令により廃城となった。